老眼鏡

kimikoishi2007-05-21

わたしはかなりひどい近眼です。

棟方志功ほどではありませんが、結構ひどい近眼です。

近くを見るときはよいのですが、遠くがいけません。もわもわとしてゐて、小さな字は読めません。

とりわけ困るのが「液晶画面」です。このごろは、とくに駅などで液晶掲示板が増えましたが、あの黒い画面にオレンジ色の光がちらちらする画面は、実に見えにくいのです。なんとかならぬものでせうか。

こんなわたしですが、人前に立つて、ものを読むやうな機会があります。

さうすると、メモなどを手にもつて読むわけですが、あまりそのメモをぐつと近づけてみるわけにはゆきません。

そんなことをしたら、紙に顔を埋めることになりまして、聞いてくれるひとにはなはだ失礼になります。

ですから、わたしはメモを大きな紙に書きます。なんとも困つたものです。

でも、わたしには秘密兵器があります。

それは「老眼鏡」です。

百円ショップで購入しました老眼鏡を、近眼鏡の上にかけると、実によく見えるのです!!

なぜなのかはわかりません。

でも、あまり格好のよい風情ではないので、人前では使へないのが難点です。それに、目にも悪さうです。

わたしが老眼鏡をかけるのは、まだまだ二十年、三十年も先のことであるはずです。先駆けはいけません。

かういふ話をすると、きまつて、みなこはい顔をして、わたしにかういひます。

悪いことは言はないから、新しい眼鏡を買ひな。

でも、駄目なのです。わたしの近眼はひどくて、矯正がこれ以上できないのです。やれやれ。

みなさん、暗がりで本を読むのはやめませう。

中学生の時に、めがねにあこがれて、わたしはものすごく小さな活字の本を暗がりでわざと読んでゐました。結果、めがねをかけることに相成りました。しかし、

ああ、ここまで悪くならうとは思ひませんでした。しかし、

今カラデモ決シテ遅クナイノデ原隊ヘカヘレ(二・二六事件のラヂオ放送)ではありませんが、今からでも決して遅くないので、よくなるやうに努めます。

ぽんぽこ

kimikoishi2007-05-09

むかし、ぽんぽこといふお菓子がありました。

ロバ製菓のお菓子です。ロバ製菓は「ひよこ」といふお菓子も売つてゐました。「ひよこ」はつい最近まで売つてゐましたし、テレビで宣伝もしてゐたのですが、ロバ製菓さんは土地投機に失敗して倒産してしまつたやうです。とても残念・・・

もつとも、ロバ製菓の工場を買ひ取つた会社があるやうで、「ぽんぽこおやじ」といふ名前で、少々似た感じのお菓子を今でも売つてゐるさうです。

子供の時、ぽんぽこは憧れのお菓子でした。

ぽんぽこは記憶では、三個入り、六個入り、十二個入りの箱があつたやうに思ひます。ぽんぽこは一つ売りはしません。百貨店などで売つてゐる箱に入つた贈答用の高級菓子でした。

わたしがなによりぽんぽこを愛したのは、ぽんぽこの箱に小さな冊子がはひつてゐたからでした。

その小さな小冊子は「ぽんぽこものがたり」といふ題で、ぽんぽこが登場する絵本になつてゐました。

すごいことには、この「ぽんぽこものがたり」はシリーズものになつてゐて、冊子には号数がついてゐました。すなはち、すべて揃へれば、壮大なるぽんぽこものがたりの世界が完結するのです!!

そして、子供の頃、わたしは本に対してはうるさい注文がありました。

それは、まず一冊完結ではないこと。シリーズものであること、でした。そして、シリーズの他の巻の題名がすべて、一冊一冊の末尾に、こんなのがありますよ。つづけてお読みなさいといふやうに、きちんと表記してあればなほよしと思ひました。

わたしが偏愛した「ぽんぽこものがたり」は、この条件をすべて満たしてゐたのです!

そこで、わたしはぽんぽこものがたりを偏愛しました。

といつても、箱入りのお菓子が家にやつてくる機会など、さうあるはずもなく、ぽんぽこものがたりは二冊しか集まりませんでした。

そこで、わたしはぽんぽこを買つてくれと、両親にねだりました。

両親は渋つてゐましたが、ある日たうとう買つてくれることになりました。

わたしは大喜びです。

ぽんぽこものがたりのつづきが手に入るのかとわくわくしました(つづきといつても、一巻一話完結なのですが)。

眠れぬ夜をすごして(多分すぐに寝たと思ひます。すぐに不眠気味になる現在からみると羨ましい限り)、翌日、わたしは両親と百貨店のお菓子売り場にゆきました。ロバ製菓のコーナーにゆきまして、ぽんぽこを求めます。

三個入りのを一つください。

両親がさういふと、お店のお姉さんはにこやかにぽんぽこを包み紙でつつみ、わたしに渡してくれました。

行儀の悪いわたしは、ぽんぽこものがたりが気になつて、制する両親をよそに、包みをその場であけてしまひました。

…なんと。ぽんぽこものがたりがないではないですか。

わたしはたまげました。お菓子より、付属の小冊子が目当てなのですから、こんな衝撃はありません。

わたしは騒ぎました。ぽんぽこものがたりがはひつてゐないと。

しかし、どうも店のお姉さんの説明によると、ぽんぽこものがたりは三個入りにははひつてゐなくて、六個入り以上でないとくれないやうなのです。

なんと。なんと。わたしは悲しみました。嗚呼、虞姫よ虞よ、汝をいかんせん、ではないですが、絶望して、わたしは落涙しました。今思へばそんなことで、それほど動揺することはないと思ふのですが。

お姉さんはそんなわたしを見かねたのでせう。このくそ餓鬼、とでも思つたのかもしれませんが、ぽんぽこものがたりをそつとわたしに渡してくれたのです。お姉さんはにつこりと笑つてくれました。

破顔一笑。わたしは大喜びです。

お姉さんにちやんとお礼を言つたかは覚えてゐないのですが、くそ餓鬼でしたから、言へなかつたかもしれません。

わたしはいまでもそのお姉さんに感謝をしてゐます。遅くなりましたが、ここでお礼をちやんと言つておきませう。

ありがたうございました。

ぷきい

kimikoishi2007-05-05

さて、右上のぶたの写真なのですが、このぶたはいったいなんでしょう?

実は、上海商業儲蓄銀行という銀行がありまして、そこのマスコットキャラクターなのです。名はpukii(プキー)と言います。pukiiには両親と兄弟がいます。

「儲け蓄え」銀行という名もすごいですが、プキーという断末魔の悲鳴のような名もすごいです。

わたしはpukiiがそこそこ気に入つています。今なら「踊るpukiiあかちゃん」のぬいぐるみが貰えるかも。http://www.scsb.com.tw/card_950922.jsp

上海商業儲蓄銀行は1915年(民國4年)に上海で創立されたそうです。「服務社會、輔助工商實業、發展國際貿易」をモットーとして、日本との交戦前(1937年以前)までは、中国最大の民営銀行の一つだったそうです。

その後、日中戦争のごたごたに巻き込まれまして、営業途絶の状態が続き、1965年に台湾の台北市で正式に営業を再開したそうです。上海という名前ではあるのですが、中国の上海とはあまり関係がなくなっていて、今は台湾の銀行なのですね。

今年の台湾はぶた年です。日本では亥の年ですね。中国語では「いのしし」は「野猪」で、ぶたは「猪」と書きます。そこで、台湾や中国ではぶた年なのです。ぶたはとても愛されています。ぶたをモデルにしたマスコットキャラクターの類も、あちこちで見かけます。

一方、日本では、ぶたはキャラクターとしてはあまりよい位置にないようですが、台湾ではそうではありません。なにしろ、銀行のキャラクターになるくらいなのですから。ぶたはミッキーマウス(かつての東京三菱銀行のキャラクター)と引けを取らない座を占めているのです!

わたしはぶたが好きです。もっとも、子供の頃は嫌いでした。それは、近所のぶた小屋が猛烈にくさかったからです。

とは言え、キャラクターとしてのぶたは好きで、わたしは自分なりのぶたマスコットを作り上げて、「とんとん」と呼んでおりました。小学生の時のことです。

そのマスコットは、直立二足歩行しているぶたです。あまりかわいくはないと思うのですが、不思議と級友には人気がありまして、とんとんを描いてよ、とせがまれては、得意になって、とんとんを描いておりました。

しかし、ぶたといえば、あいつはブタだ、とか、ブタのように卑しいやつだとか、碌な言われようではありません。わたしはかねがね気の毒に思っておりました。

でも、そんなぶたへの愛情が揺らぎそうになる一瞬が、この前ありました。

それは、テレビを見ていたときのことです。突如、画面に一匹の「ぶた」が出てきました。わたしは目を細めて、小さなぶたが走り回るのを見ていました。

ところがです。

ぶたの前に、巨大なデコレーションケーキが現れました。それは、わたしの誕生日には、まず貰えなかったような立派なケーキです。

いやな予感がしました。ぶた野郎にこれをたべさせるのか?

案の定、それはぶたへのプレゼントでした。

ぶたはケーキに向かって猪突猛進したかと思うと、がつがつとくらいはじめました。

その食べっぷりのすさまじいこと。わたしはあきれてしまいました。

あっという間に、ぶたは巨大なケーキを平らげてしまいました。わたしはいくらたべたくても買えないような大きなケーキです。嗚呼、あのケーキ、いくらしたのでしょう。それを、がつがつと品もなく、たった数十秒でぶたはたいらげてしまったのです。

しかも、お茶もなしに。

嗚呼。

わたしは嘆息しました。画面のぶた野郎は、今度は別の動物をおしのけて、そいつのえさまで食べ尽くしています。

嗚呼。

もう同情の余地はありません。このブタ野郎!

わたしは「別の動物のえさ」には興味はなかったのですが、ケーキには食指が動きました。
嗚呼。

耐えられなくなって、わたしはテレビを消しました。

でも、ぶたのマスコットキャラクターはやっぱり好きです。わたしは金色のぶたの貯金箱を愛用しております。がつがつと世界のお金を食べ尽くして欲しいです。それをわたしが横取りするわけです。

真のブタ野郎は、案外わたしなのかもしれませんが。

トンネル

kimikoishi2007-04-18

わたしの親族から聞いた話です。

昭和初期のことです。仮にA氏としておきませうか、A氏が学生の頃の話です。A氏はH県のT郡といふところに住んでゐました。今も田舎ですが、当時はもつと田舎だつたところでした。

A氏は毎日汽車に乗つて、中学校に通つてゐました。朝夕には、学校に通う学生に合はせて臨時の汽車が出てゐたさうです。A氏はその日も、学校にゆくべく、臨時の汽車に乗つてゐたさうです。

汽車にはデッキがありまして(新幹線にあるやうな客室の外にあるトイレットや洗面台がある場所です)、A氏は汽車の一番うしろの車輌のデッキに立つてゐたさうです。汽車は学生でいつぱいでした。

当時の汽車は手動の扉ですから、暑い季節などはわざわざ閉める人もなく、みな開けてしまつてゐます。その日も扉が開いたまま、汽車は轟々と走つてをりました。

デッキにはA氏の他に、学生がもう一人ゐたさうです。その学生は開け放した戸にもたれかかつて、読書をしてゐたさうです。

ぴいぴいと時折、機関車が汽笛を鳴らします。汽車は轟々と山間を走つてをります。

さうして、汽車は猛烈な音を立ててトンネルにがたがたと入つたさうです。

がたがた、がうがうと大きな音がします。機関車からの煙が入つてきて、薄く立ち込めてゐます。頭の上の白熱灯がぼんやりとともります。汽車はとてものろいので、なかなかトンネルを抜けません。

煙にむせさうになつて、たまらなくなつて、A氏は扉を閉めようとしました。

おや。

扉を閉めかけて、はたと思ひあたりました。

ここにゐた学生は?

さうなのです。扉にもたれてゐた学生がゐません。

狭い場所なので、他の場所に移つたのなら、すぐに分かります。なんだなんだ、あいつ落ちたんじゃないか??

A氏はデッキから客室に入り、そこにゐた学生たちに聞きました。

今、そつちに一人ゆかなかつたか?

学生たちは顔を見合はせます。

いいや? 誰か来たか?

お互ひ顔を見合はせたあと、

いや、誰も来ないよ。

やつぱり、あいつは落ちたんだ。

A氏が言ふと、みな大慌てです。とにかく汽車を止めろ、といふことになつて、車掌に誰かが報告します。車掌はブレーキをかけました。

汽車はもうトンネルを少し出てしまつてゐました。ぎりぎりと音を立てて、車体をきしませながら汽車が止まります。運転手もなんだなんだと、降りてきました。

さうして、みなで線路を伝つて走ります。

おーい。ゐたかあ??

汽車中大騒ぎです。なんだなんだと窓といふ窓から顔が出てゐます。

トンネルに向かつて、学生たちが走ります。

おーい。ゐるかあ??

前の方の車輌の学生たちは何がなんだかわけがわかりません。なんだなんだ、どうしたんだ??

ああ、あいつは死んだのかな。

A氏は走りながら思つたさうです。

しかし、事件は意外な結末に。

トンネルから、腰をさすりながら、例の学生が出てきたのです。

おー、いてえ。

と間の抜けた声で言ひながら。片手には、しつかりと本も握られてゐます。

おお、どうした。無事だつたのか。

みなが例の学生を囲みます。

なんと、怪我一つしてゐなかつたさうです。少々腰をぶつけたやうですが、たいしたことはなかつたさうです。

戦前の田舎の汽車でしたので、ずゐぶんのんびりと走つてゐたのですね。

古本屋

kimikoishi2007-04-09

わたしが京都に住んでゐたころの話です。

ある初春の日暮れ前に、友人がわたしの家に自転車でやつてきました。そして、面白い古本屋を見つけたので、今からそこに行かうといふのです。

古本屋は好きなので、それなら行かうと立ち上がりました。わたしも自転車に乗つて、二人で丸太町通りを西から東に向かつて疾走しました。

友人の自転車は直径26インチ車輪なのですが、わたしはいくらか安い24・5インチ車輪なので、着いてゆくのが大変でした。

夕空が見えはじめたころ、わたしたちは円町に到着しました。円町には今は駅がありますが、当時はありませんでした。駅ができるとかできないとか、そんな話が出てゐたころです。円町交差点の近くには銭湯がありましたが、今もあるのでせうか。

友人はさらに丸太町を東に疾走して、少し北に入りました。

狭い通りを小川沿ひに進みます。さうして、また曲がります。

いつたいどこにあるんだと、わたしは訝りました。古本屋と言へば、大通りにはありさうなものの、狭い狭い小道にはあまりなささうなものです。人通りの少ないところでは、あまりお客がこないではありませんか。

すると、突然友人が自転車を止めて、こちらを見ます。

なんだか古ぼけた家の前です。

なんとなんと、木造の二階家です。比較的、裏通りには古い家が多く残つてゐる京都でも、百年以上建つてゐるのではないかといふやうな古い家はそんなにたくさんはありません。しかも、そんな家で古本屋を営んでゐるところはきはめて稀です。

そして、この家は古いままで何の手入れもしてゐない感じなのです。古い家屋のお店は京都にはたくさんありますが、だいたい小奇麗にしていて、経過年数をあまり感じさせないものです。ところが、この家ときたら、かはら屋根もなんだか傾いて真ん中が下がつてゐるやうな感じで、昭和三十年代なら、京都にもこんな店は多かつたらうなといふ感じの店でした。

わたしも自転車を止めて、さつそく古本を見ることにしました。

それにしても、すさまじい古本屋です。店内は屋根が低く、裸電球が二つぶらさがつてゐるきりですので、薄暗い感じです。表の通りも、なにしろ小さな通りで、明かりがもともと少ないので、店内はより暗く感じました。

また、いつの間にか、日もかなり落ちてをりました。ガラス格子を開け放しにしたままの店の、裸電球の光があまり届かない片隅に、老眼鏡をかけた店主が、こちらを一度も見ることなく、新聞に顔を埋めて化石のやうに固まつて座つてゐました。

古本屋にはよくテレビがあつたりして、店主が日がな一日それを見てゐるといふ光景がよくありますが、この古ぼけた店にはそんなものはなく、店主は静かに新聞を読んでゐました。

古本屋はわたしの友人とわたしのほかには客はなく、通りも誰一人通りませんでした。静かな夜だなあとわたしは思ひました。

さて、古本屋の棚ですが、これもまた古いものです。すべて木でできた古い本棚で、なんだか少しかしいでゐるやうです。しかも、なんだか黒ずんだ汚ない本ばかりです。

おつと、よく見ると、汚ないのではありませんでした。なんと、この本屋、箱入りの本ばかり売つてゐるのです。カバーのかかつた今時の本はちつともありません。箱入りの本がたくさんあったのは、せいぜい昭和五十年代くらゐまでではないでせうか。徹底して古い本ばかりなので、なんだか汚ないやうに見えただけでした。

ためしに手にとつて、箱から出してみた本は、発行が昭和三年です。また、手にとつて箱から出した本は、大正十一年発行。箱がない小さな分厚い本があるなと見てみると、明治三十八年発行。

なんだ、この店はとすつかり驚いてしまひました。これでは、商売にならないのではないかと、心配しました。ブックオフなら買取してくれないやうな本ばかりです。お客も、さすがにここまで古い本にはなかなか興味を示さないでせう。

友人もさすがにいろいろと本を見てはゐましたが、買いたいものはないやうでした。わたしは古い本は大好きなのですが、あまり興味の向く本はありませんでした。

外を見ると、日はとつぷりと暮れてゐます。黄色い裸電球の光に慣れたせゐか、外は真つ暗で何も見えませんでした。

春の夜風が、そよそよと頬をなでてゆきます。ああ、夜なんだ、と思ひました。

わたしと友人は顔を見合はせると、黙つて店の外に出ました。

店主は相変はらず固まつたまま、新聞を読んでゐます。


「なんだか、変な古本屋だつたね」

わたしは友人と中華食堂に入つてゐました。わたしがさう言ふと、友人も炒飯を周囲にこぼしながら、

「古い本ばかりだつたな」

と言ひました。さうして、古本屋のことはお互ひすぐに忘れてしまひまして、その後は馬鹿げた話に興じてをりました。


しかし、変な古本屋は本当に変だつたのです。


後日、わたしはたまたま円町にをりまして、ふと思ひ立つて例の古本屋にいつてみようと思ひました。

ところが、その古本屋は見つからないのです。通りさへ見つけることができませんでした。

川を上がつて、曲がつて、こつち、といふ簡単な道順だつたのですが、さつぱり分かりません。結局、あきらめて帰りました。

そして、わたしはこの古本屋にその後も何度か訪ねようとしてみたのですが、どうしてもたどりつけません。そもそも、あの通りが見つかりません。あれはなんだつたのだらうと、きつねにつままれたやうな気持ちになりました。

でも、もつと変なのは、その古本屋のことを友人に尋ねてみると、彼は「そんな古本屋は君と行つたことがない」といふのです。今でもつままれたやうな気持ちでをります。

フラ印ポテトチップス

kimikoishi2007-04-08

君知るや フラ印ポテトを
知らずや君 フラ印ポテトを


わたしは輸入食材店が大好きです。

なぜ好きかと言ふと、見たこともない食品がたくさんあるからです。

外国のものは、味も日本のものと少し違います。それが、とても新鮮で、すさみきつた生活に潤ひが生じます。

それに、わたしは日本の食品工業製品には、生意気にも飽きてしまひました。といつても、「じゃがりこ」や「おにぎりせんべい」や、亀田製菓のせんべいや日本のポテトチップスなど、魅力的なものがまだまだたくさんあるのですが、初めて味はふ変なものには到底かなひません。

たとへばクスクスなど、逆立ちしても、日本の製品では手に入れられない不思議な食感があります。しかも、簡単に調理できるのです。乾燥したクスクスに等量のお湯をかけて、五分間待つだけで出来上がりです。

クスクスなら、米飯のやうに一時間近くも炊きあがるのを待つ必要もありませんし、パスタのやうに八分間程煮て、さらに水切りする必要もありませんし、うどんのやうに食後しばらくしておなかが減つてしまふこともありません。ダイエットに最適・・・と書くと、あるある大事典のやうに、やぶへびをつついてしまふことになるのでやめておきますが、とにかく便利な一品です。

日本でも、もつと簡単にクスクスが手に入ればよいのにと思ひます。クスクス友の会会長になつてもよいです。

大幅に脱線しましたが、当初の予定は「フラ印ポテトチップス」について書かうと思つたのでした。

わたしはある日、小村には珍しい輸入食材店に入りました。輸入食材店を見かけたら必ず入店するのが、我が家の家訓です(わたし一人の家訓)。

わたしはお菓子売り場に立ち寄つて、コートドールやトーブルローヌなど、外国チョコレートを垂涎の思ひで眺めてをりました。外国のお菓子は少々高いので、しかもお菓子を気軽に食べる癖をつけると、身体によくないので、購入は諦めてをりました。眺めるだけで食べた気にならうといふ貧しい魂胆でゐたのです。

古典落語にある、うなぎの蒲焼のにほひをかぎながら、白飯をたべる話ではありませんが。

ふと、視線をチョコレートからそらすと、変な絵のついたポテトチップスが目に入りました。

フラ印 ポテトチップス

とても怪しい代物です。しかも、百数十円と安いではありませんか。しかも、よくよく手にとつて見てみると、日本製ではありませんか。こんなポテトチップスははじめてみました。

コンソメ味とうす塩味がありましたが、ついつい手が伸びて買つてしまひました。

ポテトチップスは脂つこいので(しかも、日の経つた油は確実に酸化します)、きつと身体にはよくないのでせうが、まあたまにはよいでせう。

たべてみると、ごくごく普通の味でしたが、わりとおいしいポテトチップスでした。

ちなみに、なんでハワイのフラダンス? なんでハワイとポテトチップス?(ハワイと相撲のはうが、ハワイとポテトチップスよりはるかに変な組み合はせかもしれませんが、そちらは気にしませんでした)と気になつて仕方がなくなりましたので、調べてみたらかういふわけでした。
http://www.sakebunka.co.jp/archive/others/002_2.htm
http://www.geocities.co.jp/MotorCity-Rally/3105/foods/hula.html

なんと、昭和22年から売つてゐる歴史のあるポテトチップスだつたのですね。国産のポテトチップスなど昭和40年代以降の代物だと思つてゐましたが、ずゐぶん前からあつたのですね。

関係のない話ですが、昭和50年代の末頃に、ポテトチップスの袋が現在普通に見られるやうな銀紙の光を通さないものになりました。それまでは、普通のビニール包装で、袋に印刷の色はついてゐたものの、ご丁寧に中身が見えるやうに一部を透かせてあつたりもしました。

そんなポテトチップスが駄菓子屋の店頭で、陽炎をたてて、夏の夕陽を浴びてゐる姿をよく見かけたものですが、今思ふとよく中身が酸化して痛むこともなかつたものだと感心します。寒心もします。

さういへば、キャラメルも、例のきつね目の男のグリコ・森永事件以降、外箱に、ぴつたりとしたビニールがかぶせられるやうになりましたが、事件以前は違ひました。キャラメルの箱が、ぴつちりしたビニールをかぶせられる前に、どんな感じで売られてゐたのかは、もうすつかり忘れてしまつて思ひ出せません。

これもまた関係ありませんが、公衆電話が緑色になる前は、黄色でした。こんなことはよく覚えてゐます。その前は赤色と青色がありました。青色が長距離用だつたやうに思ふのですが、交換手がゐた頃の電話は知りません。

人だけでなく、物にはいろいろと歴史があります。数十年を経由して人間が使ひ続けたものには、なんとも言へない味はひがあるものです。古い建物や汽車などを見ると、そこに集まつたさまざまな人間の思ひが伝はつてくるやうな気がします。

ですから、みなさんもたとへば携帯電話は同じものを何十年も使つてみてください。あなた自身とともに、なんとも言へない味はひが出てくると思ひます。不便きはまりないかもしれませんが・・・

シャボテン

kimikoishi2007-04-06

昨今の桜花爛漫と時を同じくして、シャボテンの花が咲きました。御覧のとおりの白い花です。

シャボテンといっても、これは多肉植物です。多肉人間ではありません。多肉植物です。

とげのないふっくらした葉で知られています。ここに水がたっぷり入っているので、乾燥した砂漠でも平気なのですね。

龍胆寺雄によると、シャボテンは最も進化した植物だそうです(『シャボテン幻想』北宋社刊)。どうも人間の感情をも読み取る力があるとかないとか、シャボテンに対してそんな実験を試みた人もあるらしいです。

そういえば、こんな話もあります(自己啓発系の本によく出てくる話だと思いますが)。

二つの鉢にそれぞれ植物の種をまいて、別々のところに鉢を置きます。

そして、一方の鉢には、お前なんかどうせろくなものじゃあないんだ。くたばっちまえ。と声をかけます。もう一方に対しては、よしよし、大事なお前。しっかり見守っているから、安心して立派な花を咲かせておくれ。と声をかけます。

そうすると、罵倒された方は、ひょろひょろとした花が咲いて、褒めちぎったほうはよい花が咲くそうです。本当かどうかは分かりませんが、植物にはたしかに神秘的な力があると思います。そして、シャボテンは普通の植物以上に感受性が鋭いと云います。

うーん。シャボテンがねえ、とお疑いの方でも、何千年も生きている大木であれば、なんだか人間とは違った思惟だか意志のようなものをもっているかもしれないと感じられるのではないでしょうか。

わたしは生きている間に、一度は、樹齢幾千年の屋久島杉を見てみたいと思っています。

シャボテンのテレパシーの話については、証明のしようのないことですので、へー、そうなのかあ、と思うくらいにとどめておくべきことなのかも知れませんが、わたしの場合は確実です。

皆様がわたしを褒めてくだされば、かならずきれいな花を咲かせて御覧に入れます。シャボテンより確実なること請け合いです。さあ、さあ、褒めてください。

それはともかく、写真の多肉植物は、二十年も前から、うようよと伸び続けているすごい代物です。うちには、シャボテンと多肉植物が数種類ありますが、どれもこれも元気で長生きです。八年未満のものは一つもありません。

わたしがはじめてシャボテンを買ったのは子供の頃のことです。

たまたま、藤子不二雄の『魔太郎が来る』というおぞましい漫画本を読んでいたのですが(友人から借りたのだと思います)、そこにシャボテンが出てきたのでした。

主人公の魔太郎は小学生なのですが、いじめられっこで誰にも心を開きません。しかし、なんとシャボテンだけが魔太郎と心を通わせるのです。

わたしは驚きました。そして、いじめられっこではありませんでしたが、葛藤の多い子供であったわたしは、シャボテンと心を通わせてみたくて仕様がなくなりました。

『魔太郎』では、そのシャボテンは鬼畜のいじめられっこによって惨殺されるのですが(嗚呼、思い出したくない漫画のシーンを思い出してしまった)、そんなことはわたしにとってはどうでもよく、とにかくシャボテンが欲しくて仕方がなくなりました。

そこで、シャボテンを買いにゆきました。シャボテンはいろいろな形のものがありましたが、選びに選んだ末に、「白閃」という名の白い毛の細長いシャボテンを買ってきました。

そして、シャボテンの飼育法の本も買ってきました。わたしは凝り性なので、子供の癖に、観賞魚飼育法の本やトマト栽培の本といった大人の専門書を読破していました。外科手術に興味を持ったこともあり、外科手術にどんな器具を使用するかという小冊子(医学書は高いので一番安いのを買ってもらって、たまたまそんな本になりました)を買ってもらったこともあります。

それはそうと、わたしの「白閃」は背丈30㎝でした。さっそく、わたしは観察ノートをつけ始めましたが、これは馬鹿げていました。一週間は書き続けたのですから、それだけは偉いことであったと言えるでしょう。

しかし、ノートをつけようという考えは馬鹿げていました。シャボテンはちっとも変化しなかったからです。

でも、「白閃」は、今もわたしとともに生きています。背丈も1mを超えています。長い間に少しづつの変化しかしないのですが、ピンク色の花を咲かせたことも何度かありました。

ちっとも変わらないのは、わたしにしても同じなのかも知れません。「白閃」もきっとそう思っていることでしょう。

お話の最後に、シャボテンを育てる秘訣を話しておきましょう(おっと、期待をしてもらっては困ります。専門家の方、園芸に詳しい方は読み飛ばしてください)。シャボテンを枯らしたという話をよく聞きます。しかし、シャボテンほど育てやすい植物もないと思うのです。秘訣さえ守れば、あなたといつまでもシャボテンはありつづけることでしょう。

その秘訣とは、水遣りを適度にして、日に当てることです。それだけです。おっと、帰ってはいけません。何も売りつけませんからご安心を。

シャボテンを枯らす人は、水を思い切ってやりすぎるか、やるのを完全に忘れてしまうかどちらかだと思います。普通の草花にあげるように、しょっちゅう水を上げてはいけないのです。でも、ぜんぜんあげないわけにもゆきません。

定期的に、適度に水をやること。その周期をシャボテンとともに共有するのです。ともに生きるとはそういうことです。(完)