記憶その2

kimikoishi2007-07-27

わたしは近所の子供と、小さな山で遊んでいました。

小さな山は、わたしが通っていた学校の裏にありました。そして、山の向こうは一面の砂漠です。

わたしたちは木に上っていました。そして、3、4人で猿のように木の上で話をしていました。

わたしたちがしていたのは三色お化けの話です。

三色お化けとは、信号機のように、赤、青、黄色の顔をしたお化けです。

なんだ、それ。そんなものいるわけないじゃないか。

わたしが莫迦にすると、みな、まじめな顔をして、

いるよ。三色お化け。暗くならないと出てこないんだ。

と言うではありませんか。

なにを馬鹿馬鹿しい。三色ってそもそもなんだい。

と、わたしが言うと、

いや、ほんとうに三色なんだよ。顔色が。

と、みなは言います。

あまりにみながまじめな顔をして言うので、わたしも少し怖くなってきました。

砂漠のほうから風が吹いてきます。

木がざわざわと鳴り始めます。

いつしか日が暮れつつあり、街灯の白い光がともっているのが見えました。

そして、周囲には、わたしたちしかいませんでした。

帰ろうか。

わたしが言いました。

そうだね。

皆も言います。でも、誰も木から下りようとはしないのでした。

なぜか、一番先に下りた者が、三色お化けにやられるような、そんな気がしたのでした。

わたしは絶対先には降りるものかと思いました。

風を受けて、木々がざわざわと音を立てます。

いやだな、早く帰りたいな、と思っていました。

三色お化けがどんなものかは分からないのですが、とにかく怖くなってきました。

その時です。

うわあ、と誰かが変な声をあげました。

その途端、わたしたちの緊張は極点に達したのでしょう。一斉に、みな、木からすべり落ちました。

そして、とめてあったそれぞれの自転車にまたがると、一斉にこぎ始めました。

と、余計なことに、わざわざ後ろを振り返った者がいました。

出たあ。

とそいつは叫びます。

わたしは一目散に飛び出るつもりでしたが、どうしても気になって振り返りました。

出たああ。

わたしも叫びました。

あとのことは覚えていません。

気づくと、わたしは食卓について夕飯をたべていました。

三色お化けは、たしかに赤、青、黄のグラデーションの顔をしていました。痩せたおじさんでした。しかし、手を広げて、今にもこちらに迫って来ようとしていました。

でも、三色お化けは、あの山を出られないんだ。

わたしはすっかり安心していました。しかし、あの山にはもう行きたくないなと思いました。

ところが、そんな心配はそもそも不要だったのです。だって、砂漠が後ろに続いている小さな山なんて、その町にはなかったのですから。

その事件の後で、学校で、近所の地図を描きなさい、という課題が出たのですが、あの山はどこに描いたらよいのだろうと、わたしはとても悩みました。

記憶

kimikoishi2007-07-26

A君と遊んでいたら、たまたまそこに来たB君と知り合いになりました。

B君とは初めて会ったのですが、どうやらA君の友人のようです。

3人は一緒になってしばらく遊んでいました。なにをして遊んだのか忘れましたが、とても楽しかったのを覚えています。

やがて、夕方になったので、3人の母親が連れ立って迎えに来ました。

じゃあね。またね。と3人は、それぞれの母親に連れられて、家に帰りました。

それから何日かたって、A君とまた遊びました。

B君は今日はこないの?

と、わたしはA君に聞きました。

誰それ?

A君は言いました。

なんだい。この前遊んだじゃない?

わたしは言いました。A君はなにをとぼけているんだろう? わたしは少し憤慨しました。

いや、そんなやつしらないよ。

A君は言いました。なんだなんだ。なにをとぼけているんだ。

でも、A君はまじめな顔をしています。おかしいな。とは思うのですが、それ以上、抗弁しても仕方がないと思ったので、B君のことは忘れて、遊びをつづけました。

しばらくして、夕方になりましたので、家に帰りました。

母親に今日のことを話しました。そして、A君のやつ、B君なんか知らないととぼけたんだよと言いました。

すると、

A君の他に誰かいたっけ??

と母は言いました。

わたしはびっくりしましたが、A君と示し合わせてふざけるわけがありません。

おかしいな。おかしいな。と思いはしましたが、一度きりしか会ってない人のことだし、それ以上、しつこく言う気もしなくなって黙りました。そもそも、それ以上言おうにも、B君の正確な情報は何も持ち合わせていなかったのです。

次の日、またA君に会いましたので、B君なんてしらないなんてうそだろう?と言ってみました。

ううん。しらないよ。誰それ?

やはり、B君は同じことを言いました。わたしはすっかり途方に暮れて、なんだか胸がきやきやとするような変な感じがしましたが、

そうか、そんなやつはいなかったんだな。

と思うことにしました。そう思わないとなんだか困ってしまうと思ったからです。

dé-dialectique

kimikoishi2007-07-22

個人と全體の間というものは、いろいろと問題をはらんでいます。

個人を中心にものを考えてみます。個人の世界は大變狹いものです。個人の諸事情によってそれは各種各樣のものとなります。ある程度は他人と相亙る領域はあるものの、そこは他人はやはり他人です。たとえば、己が苦しみを眞の意味で分かるのは己だけです。また逆に、己の苦しみの眞の姿は、實は他人にしかわからないということもありえます。己というものは眞に孤獨なものです。
ですから、個人を中心に考えると、全體を考えるのは難しいことになります。個人にとって全體は常に他者であるからです。

それでは、全體を中心に考えてみます。これは容易に政治と結びつきます。全體を考えるとは、普遍について問うことであり、神や共同體が主役となります。これは、政治の動向を考える時には必要な視點です。個人の事情だけで全體を左右すれば、全體はばらばらになってしまうでしょう。しかし、全體からの思考は容易に個人を壓殺します。これはマルクス主義や資本主義の歸趨が容易に示すところでしょう。

この中間を定めるのは大變困難なことです。思想というものはこの中間に賭けられているわけです。

エドワード・サイードがかつて個別と普遍の調停の重要性について述べていました。

しかし、これに対して、「普遍」について語るということはそもそも終わったことではないのか? なぜなら、一頃、論壇をにぎわせたポストモダンというものは「普遍」を語ることをやめるべきで、その手前の境域で問題を語るべきだと主張するものではなかったのか? そうであれば、いまさら普遍について語ることは逆行以外の何者でもないのではないのか? こういった批判が投げかけられることがありました。

しかし、手前の境域にとどまるのは、普遍を無視してもよいと言うことではないと思います。普遍はいつの間にか侵食してくるものです。普遍を無視すると言う語り口の基準は、そもそも普遍ではないと言い切れるのでしょうか。

構築主義」という言葉を駆使する人の一部には、普遍の脅威をまるで知らぬかのような単純さで、歴史的事象を粗雑な尺度で語るだけでよしとする安易な態度に終始している傾向が見られます。もっとも、そんな人は一部であろうし、一部であると思いたいのですが)

それは、すぐに答えの出るものではないでしょう。だが、人はすぐに答えをほしがるものです。なにしろ個人の生命には時間空間ともに限りがあります。しかし、すぐに出る答えはたいがい碌なものではありません。

碌でもない答えの一つは「英雄」でしょう。たとえば、戰爭時はさかんに個人の英雄ぶりが説かれます。英雄は國を守るために戰います。そして、英雄は國を守るだけではありません。個人の生活においても勝者です。英雄は愛する人、家族を守るのです。アメリカ映畫によくある英雄像は、いはば全體と個人を結ぶ理想像です(もちろん、共産圏でも英雄は人気です)。

しかし、その理想像は歪んだものです。全體や普遍はそこにはなく、個人もそこにはありません。英雄の傍らには、一將功成りて萬卒枯る、の死屍累々の情景しかないでしょう。

英雄は遠ざけるべきこと。しかし、英雄への依據は、實は樂なことです。不安は解消されます。英雄を喪って、なおどう生きるかは、なかなか答えの出るものではないと思います。

田谷力三


田谷力三の1983年の映像です。田谷力三(1899−1988)は浅草オペラの看板俳優兼歌手でした*1

田谷は三越百貨店の三越少年音楽隊に入り、大正6年(1917年)、18歳の時にオペラ歌手としてデビューします。田谷は美貌と才能に恵まれていたので、すぐに浅草オペラの看板俳優になりました。

田谷は派手な衣装を着てイタリアオペラを歌い、演じました。

浅草オペラといえば、歌手の二村定一喜劇俳優榎本健一といった大物を輩出したことでも有名です。伊庭孝、伊澤蘭奢といった名優も誕生しました。

大正時代はなぜかオペラがはやりました。それにはこんな経緯がありました。

明治時代に歌舞伎の現代版として新派劇が生まれます。歌舞伎は江戸以前のものですから、これをなんとか現代の演劇にできないかということで、新派劇というものが登場したわけです。新派劇には、梨園にも賛同者があり、役者が多数参加しました。歌舞伎と新派劇は共存する形で舞台も共有していました。

明治三十年代には、シェークスピアの全作品を訳した坪内逍遥などが中心になって、演劇改良の必要性がさかんに唱えられました。西洋演劇をなんとか日本に持ち込もうというわけです。そこで、改良運動の趣旨にかなった脚本を新派劇で使ってもらう試みをしました。

しかし、新派劇は新作脚本を演じるというだけで、なかなか改良には至りませんでした。なにしろ、新派劇の俳優は歌舞伎役者ばかりです。ちょうど草創期の映画の俳優が、歌舞伎役者ばかりだったのと同じように、俳優というと歌舞伎(田舎歌舞伎も含めて)にしかいなかったわけです。新派劇の俳優は、演劇改良運動などの意向より、観客の歓心のほうが重要ですから、面白くない脚本は勝手にどんどん変えてしまいました。

観客はなにしろ歌舞伎によくある勧善懲悪ものを喜びました。そして、人間描写がリアルな芝居なんかよりも、大見得を切った大げさな演技のほうが大喜びです。しかし、坪内逍遥はそもそも明治18年の『小説神髄』で、勧善懲悪を排すべきだと主張していましたから、この観客の嗜好もなんとか変えてゆかなくてはならないものとなりました。

演劇改良運動を徹底するためには、とにかく歌舞伎と離れなくてはなりません。脚本もさることながら、自前の俳優と舞台がなにより必要になります。坪内逍遥は文芸協会を結成して、新しい俳優の育成に努めました。

そして、文芸協会は洋行帰りの島村抱月を座付き作者に据えました。こうして、新しい劇、新劇運動が華々しく展開されることになりました。時は大正時代に入ります。

しかし、抱月は女優、松井須磨子と恋愛騒動を起こします。抱月は文芸協会を去ることになりました。そして、抱月は須磨子と芸術座を興します。

芸術座はロシア演劇を演じて、劇中歌を取り入れました。そこで、大ヒットしたのが「カチューシャの唄」でした。松井須磨子の吹き込んだ「カチューシャの唄」のレコード(蝋管蓄音機)が今も残っています。

こうして、歌舞伎とは離れたところで、新しい演劇がようやく軌道に乗ることになりました。西洋演劇が日本のものとして受け入れられるようになったわけです。

浅草オペラはそんな頃に、誕生しました。

しかし、演劇の時代は大正時代も末になると、少しづつ衰えを見せて、やがて活動写真にとって変わられます。もっとも、レビューや宝塚少女歌劇など、昭和戦前期もなお演劇の隆盛はつづくのですが。

田谷力三は89歳まで生きて、生涯現役でした。80代後半になっても、テレビに時折出ては、浅草オペラ時代の「恋はやさし野辺の花よ」という名曲を朗々と歌っておりました。ゴンドラに乗って、雄雄しく歌っている姿が週刊誌のグラビアに載っていたこともあります。100歳まで歌うと宣言しておりました。大正演劇の貴重な生き証人でした。

証人というのは不適当かもしれません。なにしろ、現役の歌手だったのですから!

今回、youtubuで田谷力三の映像を久しぶりに見ましたが、大正時代の看板俳優ぶりも健在で、髪も黒々としており、長い足で、すっと姿勢の伸びたダンディな姿に大変打たれました(髪は染めているのかもしれないし、ズボンはパンタロンですが、見せるための心がけがよいのです)。

歌声もすばらしいものです。80歳をすぎて美声を保つことができたのは、天賦の質もあるでしょうが、鍛錬を欠かさなかったのでしょう。

恋はやさし野辺の花よ 夏の陽の下に 朽ちぬ花よ

明日はお立ちか

「明日はお立ちか」は昭和17年(1942年)の流行歌です。明日はお立ちか、お名残惜しや、で始まる哀切たつぷりの歌です。出征兵士の妻が夫を見送る歌なのですが、よくこんな寂しい歌が戦争中に出せたものだと思ひます。夫を戦争に送り出すのがいやでいやでしかたがないといふ当時の妻の心情が伝はつてくる歌だと思ひます。

戦争中はとにかく内務省だの情報局だのがうるさくて、軍歌でない歌はいろいろけちをつけられたと言ひます。この歌も一応軍歌といふことで、レコードにすることができたのでせう。

もつとも、戦時中はなんでもかんでもうるさく軍の好みに合はないものは退けられたかといふと、さうでもなくて、「森の水車」や「煌めく星座」のやうに戦争とはまるで無縁のレコードも間隙を縫つて出てゐます。

「明日はお立ちか」を歌つた小唄勝太郎は、勝太郎といつても男ではありません。女性です。もともと神楽坂の芸者をしてゐた人で、芸者が男名前を語るのは珍しくないことで、それにはいろいろ諸説があるのですが、それはともかく、勝太郎さんはわたしの高等学校時代の憧れの女性でした。と云つても、勿論わたしは当時の高等学校生ではありません。わたしが高校生の時、勝太郎さんはすでに亡くなつてをりました。

小唄勝太郎は当時、やはり芸者から歌手になつた藤本二三吉とずゐぶん張り合つたさうです。二三吉は「祇園小唄」*1を歌つたことで有名です。この頃の京都の舞妓さんは、よくこの「祇園小唄」で踊ります。さすがに江戸時代の小唄では、リズムが古すぎて、今の観客には適さないからでせう。

江戸時代のものでは、「ゆき」といふ小唄(といふのかなんだかわかりませんが)が、わたしは好きです。しかし、この「ゆき」はものすごくスローテンポでありますので、現代の観客は退屈してしまうふことでせう。

それはともかく、「明日はお立ちか」は戦後の詞なぞもありまして、それは「心と心つないだ糸はなんで切れましよ。切れやせぬ」といふやうな歌詞に変はつてゐます。もちろん、昭和17年の元の詞には、そのやうな「時局」に適さない詞はありません。

小唄勝太郎は珈琲が好きだつたさうです。日本髪で着物を著て、嫣然と微笑んで、珈琲を飲んでゐる姿の写真を見たことがあります。昭和十年代の写真でしたらうか。わたしは高校生のときは珈琲なぞまつたく飲めませんでしたが、いつのまにか飲めるやうになりました。

泥鰌

kimikoishi2007-07-13

さかながすきです。

さう。たべるのも。飼ふのも。

きつと、さかなの形が好きなのでせう。わたしとさかなとの関係は因縁浅からぬものがあります。

最近、さかなを飼ひたくて仕方がありません。

今まで、いろいろなさかなを飼つてきました。

金魚、鯉、鮒、なまず、どじやう、たなご、そして、もちろん熱帯魚も飼ひました。

熱帯魚は、さかさなまずに、コリドラスネオンテトラオトシンクルス、カラーブラックテトラといふのを飼つてゐました。

しかし、今は何も飼つてゐません。

最近、さかなを飼ひたくて仕方がありません。

でも、わたしは旅行が趣味なので、動物は飼へないのです。旅行に行くと、何日か留守にすることになります。でも、動物には、毎日えさをあげなくてはなりません。

先日、スーパーマーケットにゆくと、魚売場で生きたどじやうを売つてゐました。黄色い桶に三十匹くらゐはゐたでせうか。どじやうたちは桶の中で、ひげをうごめかしながら、もぞもぞと動いてゐました。

もちろん、これは飼ふためにではなく、たべられるために売られてゐるどじやうです。

ですから、一匹いくらではなく、何グラムいくら、と札に書いてありました。

もつてかへつて、水槽で飼ひたいと思つたのですが、どじやうたちがうちにゐると、旅行に行けなくなつてしまひます。あきらめて家に帰りました。