田谷力三


田谷力三の1983年の映像です。田谷力三(1899−1988)は浅草オペラの看板俳優兼歌手でした*1

田谷は三越百貨店の三越少年音楽隊に入り、大正6年(1917年)、18歳の時にオペラ歌手としてデビューします。田谷は美貌と才能に恵まれていたので、すぐに浅草オペラの看板俳優になりました。

田谷は派手な衣装を着てイタリアオペラを歌い、演じました。

浅草オペラといえば、歌手の二村定一喜劇俳優榎本健一といった大物を輩出したことでも有名です。伊庭孝、伊澤蘭奢といった名優も誕生しました。

大正時代はなぜかオペラがはやりました。それにはこんな経緯がありました。

明治時代に歌舞伎の現代版として新派劇が生まれます。歌舞伎は江戸以前のものですから、これをなんとか現代の演劇にできないかということで、新派劇というものが登場したわけです。新派劇には、梨園にも賛同者があり、役者が多数参加しました。歌舞伎と新派劇は共存する形で舞台も共有していました。

明治三十年代には、シェークスピアの全作品を訳した坪内逍遥などが中心になって、演劇改良の必要性がさかんに唱えられました。西洋演劇をなんとか日本に持ち込もうというわけです。そこで、改良運動の趣旨にかなった脚本を新派劇で使ってもらう試みをしました。

しかし、新派劇は新作脚本を演じるというだけで、なかなか改良には至りませんでした。なにしろ、新派劇の俳優は歌舞伎役者ばかりです。ちょうど草創期の映画の俳優が、歌舞伎役者ばかりだったのと同じように、俳優というと歌舞伎(田舎歌舞伎も含めて)にしかいなかったわけです。新派劇の俳優は、演劇改良運動などの意向より、観客の歓心のほうが重要ですから、面白くない脚本は勝手にどんどん変えてしまいました。

観客はなにしろ歌舞伎によくある勧善懲悪ものを喜びました。そして、人間描写がリアルな芝居なんかよりも、大見得を切った大げさな演技のほうが大喜びです。しかし、坪内逍遥はそもそも明治18年の『小説神髄』で、勧善懲悪を排すべきだと主張していましたから、この観客の嗜好もなんとか変えてゆかなくてはならないものとなりました。

演劇改良運動を徹底するためには、とにかく歌舞伎と離れなくてはなりません。脚本もさることながら、自前の俳優と舞台がなにより必要になります。坪内逍遥は文芸協会を結成して、新しい俳優の育成に努めました。

そして、文芸協会は洋行帰りの島村抱月を座付き作者に据えました。こうして、新しい劇、新劇運動が華々しく展開されることになりました。時は大正時代に入ります。

しかし、抱月は女優、松井須磨子と恋愛騒動を起こします。抱月は文芸協会を去ることになりました。そして、抱月は須磨子と芸術座を興します。

芸術座はロシア演劇を演じて、劇中歌を取り入れました。そこで、大ヒットしたのが「カチューシャの唄」でした。松井須磨子の吹き込んだ「カチューシャの唄」のレコード(蝋管蓄音機)が今も残っています。

こうして、歌舞伎とは離れたところで、新しい演劇がようやく軌道に乗ることになりました。西洋演劇が日本のものとして受け入れられるようになったわけです。

浅草オペラはそんな頃に、誕生しました。

しかし、演劇の時代は大正時代も末になると、少しづつ衰えを見せて、やがて活動写真にとって変わられます。もっとも、レビューや宝塚少女歌劇など、昭和戦前期もなお演劇の隆盛はつづくのですが。

田谷力三は89歳まで生きて、生涯現役でした。80代後半になっても、テレビに時折出ては、浅草オペラ時代の「恋はやさし野辺の花よ」という名曲を朗々と歌っておりました。ゴンドラに乗って、雄雄しく歌っている姿が週刊誌のグラビアに載っていたこともあります。100歳まで歌うと宣言しておりました。大正演劇の貴重な生き証人でした。

証人というのは不適当かもしれません。なにしろ、現役の歌手だったのですから!

今回、youtubuで田谷力三の映像を久しぶりに見ましたが、大正時代の看板俳優ぶりも健在で、髪も黒々としており、長い足で、すっと姿勢の伸びたダンディな姿に大変打たれました(髪は染めているのかもしれないし、ズボンはパンタロンですが、見せるための心がけがよいのです)。

歌声もすばらしいものです。80歳をすぎて美声を保つことができたのは、天賦の質もあるでしょうが、鍛錬を欠かさなかったのでしょう。

恋はやさし野辺の花よ 夏の陽の下に 朽ちぬ花よ