あんバーガー
君知るや、ウェンディーズを。あんバーガーを。
知らずや君、あんバーガーを。
ウェンデーズと言いますのは、ハンバーガーショップでございます。
日本のハンバーガーショップには、マクドナルド、ロッテリア、ドムドム、ウェンディーズ、わにのマークをマスコットにした名前を忘れた一店(後刻追記、ファーストキッチンです。開店当時はわにのマスコットがいました。好きでした)と五つがございます。他にもあるかもしれません。あったらご教示ください*1。森永ラブというのが昔あったように記憶しますが、今あるのかどうかは定かではございません。
先日、わたしはウェンデーズに行ってまいりました。
ウエンデーズは、映畫「アダムスファミリー」の登場人物からとった店名かと思っていました。商號のそばかすお姐さんがそうかと思っていました。
そんなわけはありません。あれは「ウェンズデイ」です。
それはともかく、ウエンデーズには「あんバーガー」というものがあります。
店内にポスターが張ってあります。
「あんバーガー」
一個百二十圓とあります。臺灣のビンロウ*2竝に不思議なものだなあと横目で見ておりました。
しかし、奇怪なものは敬して遠ざけるなかれ、です。
なぜならば、
後悔というものは、行ったことに對するより、行おうとして結局行わなかったことに對するほうがより深い。
というではありませんか。
物はためしです。
あんバーガーをたべてみました。餡とマーガリンとチーズが入っておりました。
今度はあたためて食べてみたいです。
映像の歌は「小城故事」と「釆檳榔」です。「釆檳榔」(ビンロウとり)は中国の古い歌です。ビンロウは試してみたかったのですが、機會がありませんでした。あまり後悔もしていないのですが・・・なほ、ビンロウを日本に持つて歸ることはできないさうです。
*1:トラックバックを頂いた「ハンバーガ レストラン」 http://xn--mck9cd3lwb.sblo.jp/ さんのブログを拝見して、モスバーガー、フレッシュネスバーガーがあったのを思い出しました。
*2:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%B3%E3%83%AD%E3%82%A6
雲の果て
雲の上に住めたらいいなあと思ひます
彈胡弓洋燈幽搖
小紅火明滅遠送
愈去不見夜霧中
胸中白蓮花枯時
再不見黄包車去
夜雨煙中四馬路
離去之身蕭蕭然
告別于霧中上海
遙望明日之雲海
臺灣桃園國際機場
先日、友人夫婦とその子供である女の子二人と、神社にゆきました。
神社で、友人が女の子に五圓玉をあげました。
女の子はその五圓玉を賽錢箱に放り投げて、熱心に拜んでいました。
わたしも二禮二拍一禮をしました。賽錢は入れませんでした。
すると、それを見た女の子が、自分のがま口を取り出して、十圓玉をくれました。
きっと、お金がないと思ったのでしょう。
あとで、わたしはそのお禮に、台灣の一圓玉を上げました。
女の子は台灣の一圓玉を見て、禿げちょびんだ、變だあ、と言いました。
禿げちょびんとは、一圓玉に彫られた蒋介石の肖像です。たしかに、思い切りよく禿げています。
台灣の貨幣の肖像は、孫文(孫中山)と蒋介石(蒋中正)の二種類なのですが、不思議とどちらも禿頭です。
そういえば、日本の貨幣には肖像がありません。また、もし肖像があったとしても、禿げちょびんではないかもしれません。
日本のお金は、禿げちょびんの人の肖像を選ばないという鐵則でもあるのでしょうか。
肖像に髮の毛があったほうが、僞造しにくくなるのかもしれません。今後、肖像に禿げちょびんが選ばれることはないのでしょうか。森鴎外や西田幾多郎の肖像がお札に載ることは、どうもなさそうです(政治的な理由で選ばれないのでしょうが・・・)。
蒋介石(台灣では普通、蒋中正と呼びます)と言えば、台北の國際空港は蒋氏にちなんで、長らく「中正國際機場」と稱してきたのですが、2006年9月に「臺灣桃園國際機場」または「臺灣桃園國際航空站」に名を變えたそうです。http://www.taoyuanairport.gov.tw/CKSchi/
桃園は、國際空港のある場所の地名なのですが、とても甘美な名前です。西王母でも居そうな雰圍氣です。
改名の由來は、獨裁者が君臨した過去のイメージを消すことにあるようです。蒋介石の名殘りと言えば、台灣の町の通りには「中正路」というのもあります。さすがに、これは變えないと思うのですが。
蒋介石と言えば、1947年に、台灣では知らぬ人のない「二・二八事件」という事件がありました*1。
50年間の統治を經て、1945年に敗戰國となった日本が台灣から撤退して以降、台灣は大陸本土の中華民國政府によって統治されることになりますが、大陸出身者(外省人)が台灣人(本省人)を微に入り細にわたっていろいろと暴力的に差別をしました。
差別されつづけた民衆の怒りは蓄積する一方でしたが、ついに市場で無辜の民が銃殺されるという騷動をきっかけに、怒りはにわかに沸騰して、台灣全土での民衆蜂起に至ったのが、二・二八事件です。
しかし、この蜂起は呆氣なく國民軍に制壓されてしまいます。台灣は戒嚴令下に置かれて、結果的に28000人もの民衆が殺されました。
この時の戒嚴令(要は、軍が政府實權を握る状態になります)は、なんと1987年まで續きます。
1987年まで、台灣は名目上は内亂状態にあったということになります(同時に大陸本土と臨戰状態にもあり、現在もそれは續いております)。1980年代までは、鐵道のトンネルや橋のたもとには兵隊が配置されて、共産勢力によるテロを警戒していたそうです。無論のこと、こうした施設の撮影はできませんでした。
もちろん、嚴しい言論統制も敷かれます。恐怖政治が時によって強弱はあったものの、40年以上續くことになりました。
以前、日本に留學した台灣の女性と話す機會がありましたが、1980年代までは、近所の家に、夜中にいきなり憲兵が踏み込んできて、その家のおじさんが連れられて、その後二度と歸ってこなかったというようなことが、日常茶飯事だったそうです。
李登輝總統が就任して以來、蒋介石由來の軍による統制状態と恐怖政治は一掃されて、民主化が果たされました。この李登輝が總統を退任してから、病氣の治療と、同級生に會う(李氏は京都帝國大學出身)ためという非政治的な用件で來日しようとしたら、中國共産黨の御意向をわざわざ汲んで、これを阻止しようとした政治家が何人かおりました。
蒋介石の獨裁政治があまりにも恐ろしいものであったので、日本治世下のほうがよかったという人も少なくないそうです。しかし、日本軍も日清戰爭後の台灣占領時に多數の人を殺戮していますし、その後も1930年の霧社事件*2などの悲劇を散發的に引き起こしています。蒋介石の治世よりましであったと言っても、治世に伴う殺人が道義的に免責されることはないでしょう。
先の台灣の女性は、兩親とは中國語(北京語)で話し、祖父母とは日本語で話したそうです。そして、兩親と祖父母は台灣語で話すそうなのです。兩親は日本語を知らず、祖父母は中國語が不如意で、そしてくだんの女性は台灣語が分からないそうなのです。台灣の歴史の複雜さを思わせる話だと思いました。
臺灣鐵路局
台灣の松山にある慈祐宮といふところにゆきました。
松山にゆくには台北から汽車に乘ります。臺灣鐵路局の台北驛から松山驛まではわづか一驛です。
慈祐宮のことは改めて記すとしまして、歸路、松山驛から乘つた汽車はなかなか痛快なものでした。
汽車は「自強號」、「莒光號」jŭ guāng hào、「復興號」fù xìng hào、「區間快」、「區間車」の四種類があります(さらに、「普快車」といふのもあるさうです)。日本の汽車との對應はよくわかりませんが、順に特急、急行、準急、快速、普通と考へればよいでせうか。
わたしは松山から復興號に乘りました。運賃はわづか18元です。日本圓で70圓しません。台灣の物價は日本より少々安いくらゐなのですが、食費と交通費は箆棒に安いのです。日本はなんでも高い國ですが、世界的に見ても日本の交通費は高いと思ひます。
それはさうと、復興號は自動扉でなく、手動扉でした。
手動なので、走行中も戸は開いたままです。列車は戸をあけたまま、地下線にも入ります。地下鐵の中を、轟音を反響させながら走る列車はとても面白いものでした。
日本でも、20年ほど前までは、さういふ手動扉の汽車があちこちで走つてゐました。そんな汽車に乘り合はせて、突然汽車が搖れて扉から落ちさうになつたこともあります。
そのもつと前には、東京近邊にもそんな汽車がたくさん走つてゐて、上野發着の汽車、兩國から千葉方面にゆく汽車が手動扉だつたと聞きます。落ちて亡くなる人もたまにあつたらしく、危險きはまりない。國鐵はなにをやつてゐるんだ、といふ當時の新聞の批判記事を見たことがあります(當時の新聞は執拗に國鐵の批判をしてゐました。運轉中に漫畫雜誌を讀んでゐる運轉手の寫眞が掲載されたこともあります)。
台灣で、手動扉の汽車がどれだけ殘つてゐるのかは、はつきりとは分かりませんが、復興號と區間快(の一部)がさうです(「自強號」、「莒光號」の一部にもあるさうです)。その他にもあるかもしれません。しかしながら、臺灣鐵路局の計畫では、復興號はそのうち廃止となり、莒光號に吸収されるさうです。また、莒光號自体もなくなるやうなことを聞きました。なんだか、つまらない話です。
最近、台北付近の地下線で、自強號の手動扉から乘客が轉落死したと聞きます。この3月には、台灣高鐵(いはゆる台灣新幹線)も全線開業しましたし、台灣の鐵道は急速に變化しつつあります。開いたままの扉から、風を浴びるやうな暢氣な汽車旅も、そろそろおしまひなのかもしれません。
おいち
ヤバイといふ言葉があります。
一昔前は、やくざ映画かなにかで、チンピラが「オイ、やばいぞ。ずらかれ」などと叫んで、一斉に皆が逃げる、といふやうな場面がよくありまして、「やばい」といふ言葉をそんなところから覚えたものでした。
もつとも、わたしはあまりに口語的な言葉を使ふのがいやで、方言などは盛んに使ふのですが(といふより、単語の発音などに、どうしても残つてしまふもののやうです)、流行語の類はあまり使はないやうにしてゐます。そんなわけで、この「やばい」はつひぞ使つたことがありませんでした。
また、そもそも堅気の生活をしてゐますので、残念ながら、なかなか「やばいぞ、ずらかれ」といふやうな場面に遭遇する機会がなかつたからでもあります。
当世は、危急の事態でなくても「ヤバイ」を使ふやうですが、どこで使ふものなのか、にぶいわたしは懇切丁寧に教へられないと分かりさうにもありません。電車の中で「ヤバイ」と聞くと、条件反射的につい逃げたくなつてしまひますが、当世は逃げなくてもよささうです。
さて、この「やばい」ですが、ふとした機会で「東京の大道商人と其の商品」(『財政経済時報』1934年1月)といふ一文を目にする機会がありまして、そこにこんな説明がありました。
商売を禁じられてゐる場所を「ヤバイ」といふ。「張番がクリの影を認めると直ちにヤバイの声をかける、とそのヤバイの声と同時に忽ち行路の人となつて了ふのである」。ちなみに、「クリ」とは巡査のことださうです。
つまり、「ヤバイ」はテキ屋の用語ださうで、場所のことでもあり、巡査だ逃げろ、といふ指示のことでもあるわけです(発音については今と同じなのかどうかはわかりません)。場所の名でもあり、警戒の指示でもあるといふ言葉は珍しいものです。
たとへば、「動物園!」と叫ぶと、その意味がわかる者は一斉に同じ行動をするやうなものだと考へると、この言葉の奇妙さに驚きます。
しかし、なぜ「クリ!」と叫ばないのでせうか? この件はもう少し調べてみたらわかることがあるかもしれません。
なほ、テキ屋用語で「ネタ」は「売品の事で、種を逆さに読んだ彼等の符牒である。特別の符牒のないものは凡て逆さにいふ」さうです。寿司屋の用語だと思つてゐたのですが、両者共用の言葉だつたのですね。
しかし、ネタは種のことだとは知りませんでした。言葉といふものは、あまり考へずに使つてゐるものですね。もつとも、いちいち考へながら使つてゐたら、頭がこんがらかつてしまひます。
ばんごはんのおかずはなににする?
といふだけでも、「おかず」つて、そもそもなんなのでせう? お数? わたしの食卓はとても貧しいので、皿の数はわづかです。「おいち(一)」といふはうが正確かもしれません。
だいたい、ご飯ではなくて、クスクスやパスタの日でも、ご飯なのでせうか? ご飯のない国では、もちろん Night Rice あるひは riz de nuit(晩の米)みたいな言ひ方はしません。
それはさうと、テキ屋用語で活動写真を見ることは「ドウカツをケンずる」といふさうですが、1980年代に逆さ言葉が流行したことがありました。森田和義が「タモリ」と名乗つたのは、そんな時代だつたからで、今デビューする人なら別の名前で出てくるでしょう。
逆さ言葉が流行した時代に、「ヤバイ」といふ言葉ははやりました。テキ屋人気だつたのですね。
結構毛だらけ猫灰だらけ ちやらちやら流れる御茶ノ水
さういへば、京都で見たテキ屋はふるつてゐて、ハブとマングースの戦ひを見せてくれました。あやしげなハブの焼酎漬けを売つてゐました。しかし、マングースにあつさり負けるハブの薬ぢやあ、なんだか効き目も弱さうです。
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池田晶子氏が亡くなつたさうです。茲に謹んでお悔やみを申上げます。http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/fu/news/20070303k0000m060051000c.html
他にも、
ジャン・ボードリヤール
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/fu/news/20070307k0000e060061000c.html
アンリ・トロワイヤ
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/fu/news/20070306ddm041060144000c.html
が逝去したさうです。Je présente toutes mes condoléances.
カルフール
カルフールはフランスを本拠とする、売上が世界第二位のスーパーマーケットです。店名のCarrefour(カルフール)とは、フランス語で「交差点」といふ意味です。
カルフールはいはゆる大規模小売店舗、ハイパーマーケットの一つで、千平方米がざらではないやうな広大な売場面積で知られてゐます。カルフールの他にも、「オーシャン」がハイパーマーケットとして知られています。いづれも、パリ近郊に店舗があります。どうでもよいことかもしれませんが、わたしは「オーシャン」の鳥のロゴマークが好きです*2。
カルフールは2000年に日本に初上陸しました。しかしながら、業績の悪化で、2005年にはカルフールブランドを残した形でイオンに吸収されて、独立してゐます。
なぜ業績が悪化したのかは分かりませんが、日本人は少食だからでせうか?
少食だなんて、そんなわけはないだらうと仰有る方もあるかもしれませんが、日本人は少食のはうだと私は思つてゐます。ですから、ばかでかい肉や大量の冷凍食品を買つてきて、冷蔵庫に入れておく習慣もないわけです。
食べるものの種類も、あまり多くないのではないでせうか。肉や魚や野菜を、あれやこれや色とりどりに召し上がつてゐる方はそんなに多くないのではないでせうか。
それはさうと、わたしは新しい食べ物が好きです。
新しい食べ物とは、新製品のことではありません。新製品にはあまり興味がありません。それは、今までのものの延長でしかないことが多いからです。たまに変なものが出ると大喜びして求めますが(暴君ハバネロとか、ラムネ酎はいとか)。
ここで云ふ新しい食べ物とは、たべたことのないもののことなのです。
さういふわけで、わたしは外国料理がすきです。ただ、日本で外国料理を外食としてたべると、なかなか値段が張るものですから、家でつくることのできるものが理想的です。
日本のものでも、食べたことのないものは結構あります。たとえば、「くさや」と「どじやう(どぜう)鍋」です。たべてみたいのですが、機会がありません。
カルフールに出かけたのは、くさやを求めて、ではなく、外国の食品を探すためでした。
噂どほり、本当に広い店内でびつくりしました。もつとも、地方のスーパーマーケットには、巨大な店舗は珍しくないかもしれません。
フランスのスーパーだけあつて、フランスの食材がたくさんありました。しかも、外国食品輸入専門店がつける値段に比べると、少々安いやうに思ひました(ただし、菓子類は高くても売れるからなのか、一般の店より安いといふことはありませんでした)。いろんな種類のチーズや炭酸水(砂糖なし)や葡萄酒や外国のチョコレートやビスケット、そして肉がたくさんありました。
わたしは羊肉とチョコレートとエスカルゴとクスクスを買つてかへりました。
でんでんむしは一匹百円でした。さつそくエスカルゴと羊肉はたべてしまひ、あとのものは別の日の楽しみにとつておきました。でんでんむしの貝殻は、わたしのコレクシオンに加はりました。
1㎏入りのクスクスは大変安かつたので、ごはんやスパゲティの代はりとして使ふことができさうです。なにをたべようか、いろいろと画策してゐます。
続 みづうみ
(承前)
雪の道をやっとのことで登って、おそろしい坂をも下ったのですが、みづうみはすっかり凍っていました。
周囲の真っ白な雪とみづうみの区別がつきません。
こんなこともあるさ。
と、口をきつねのようにあけて、ぽかんと見ておりました。
びうびうと風が吹きます。
くびまきをとばされそうになって、我にかえると、そうそう。我にかえる。かえろうと思いました。
自動車に乗り込んで、広場を去ることにしました。
雪道をのろのろと走ります。
さっき下った坂はかなり急でしたが、うまく登れるかどうか、すこし心配でした。
さて、坂が目前に迫ってきました。
まあなんとかなるだろうと、坂を登ってゆきました。
悲壮な決意の中、映画「二百三高地」で鳴り響いていた突撃喇叭を思い出しました。のらくろ小隊長がこんな時についていてくれたら、どんなにか心強いことでしょう。
ごろろろと音を立てて、坂を登ります。少しつるつるすべっているような気もしますが、まあ気にしないことです。
ハンドルをまっすぐにして、わだちを選んで、自動車を走らせます。
よしよし、いい具合だぞ。
しかしです!
前方から何かが来ます。
おや?なんだろう。
なんだか小さなものです。
ごろごろろと自動車は登ってゆくのですが、小さなものがだんだん大きくなってきます。
あっ!
それは、さっき坂を降りるときに出会ったいぬでした。
いぬはまっすぐこちらにむかってきます。
おお、こまった。よけてくれないかなあ。
自動車といぬの距離はどんどん狭くなってゆきます。
ああ、なんと。いぬは躊躇せずまっすぐに向かってきます。あんまり寒いので、やけになっているのでしょうか?
よりによって、いぬはわだちを進んできます。歩きやすいのでしょう。「想像力」(構想力)は人間にだけしかないのでしょうか?
仕方ありません。わたしはブレーキをかけました。
坂の途中で自動車が止まります。
いぬはすすすと、寄ってきます。窓の下に来たのです。
なにかくれるのかい?
いぬはじっとこちらを見ています。
なにもあげるものはないなあ。
いぬは想像力で、これはもうくれないなと判断したのでしょう。
のそのそと歩いて、坂を降りてゆきました。
わたしは自動車を走らせようとしました。
ぐごごごご、とすごい音がしました。ぐるるるとエンジンもうなります。
あれ?
音はすごいのですが、一歩も進んでいないのです。
ああー。
わたしは遭難することになりそうです。
自動車はぐがぐがうなるだけで、もはや一歩も進んではくれないのでした。
先に引いた「詩篇」のつづきは
御言葉を遣わされれば それは溶け
息を吹きかけられれば 流れる水となる
です。神は雪や氷を人間に吹きかけます。それは耐えがたいものです。しかし、神はその雪や氷を溶かすものを与えてもいると言うのです。
そして、それは「言葉」であると言うのです。
Jacques Derridaは Foi et Savoir(『信と知』)で、語ることの重要さを説いていますが、その語る言葉は、いったいどのような言葉なのでしょうか?
有史以来、これほど言葉が氾濫している時代も少ないでしょう。アメリカが軍事用に開発したという情報回線が、インターネットとして世界に「開放」されて以来、雪や氷を溶かす言葉はどれだけ語られたのでしょう。
いぬにとっては、言葉なんかいらない。えさをくれというところでしょうが・・・
それはともかく、雪の坂道の途中で、うっかり自動車を止めてはいけないのですね。学習しました。