トンネル
わたしの親族から聞いた話です。
昭和初期のことです。仮にA氏としておきませうか、A氏が学生の頃の話です。A氏はH県のT郡といふところに住んでゐました。今も田舎ですが、当時はもつと田舎だつたところでした。
A氏は毎日汽車に乗つて、中学校に通つてゐました。朝夕には、学校に通う学生に合はせて臨時の汽車が出てゐたさうです。A氏はその日も、学校にゆくべく、臨時の汽車に乗つてゐたさうです。
汽車にはデッキがありまして(新幹線にあるやうな客室の外にあるトイレットや洗面台がある場所です)、A氏は汽車の一番うしろの車輌のデッキに立つてゐたさうです。汽車は学生でいつぱいでした。
当時の汽車は手動の扉ですから、暑い季節などはわざわざ閉める人もなく、みな開けてしまつてゐます。その日も扉が開いたまま、汽車は轟々と走つてをりました。
デッキにはA氏の他に、学生がもう一人ゐたさうです。その学生は開け放した戸にもたれかかつて、読書をしてゐたさうです。
ぴいぴいと時折、機関車が汽笛を鳴らします。汽車は轟々と山間を走つてをります。
さうして、汽車は猛烈な音を立ててトンネルにがたがたと入つたさうです。
がたがた、がうがうと大きな音がします。機関車からの煙が入つてきて、薄く立ち込めてゐます。頭の上の白熱灯がぼんやりとともります。汽車はとてものろいので、なかなかトンネルを抜けません。
煙にむせさうになつて、たまらなくなつて、A氏は扉を閉めようとしました。
おや。
扉を閉めかけて、はたと思ひあたりました。
ここにゐた学生は?
さうなのです。扉にもたれてゐた学生がゐません。
狭い場所なので、他の場所に移つたのなら、すぐに分かります。なんだなんだ、あいつ落ちたんじゃないか??
A氏はデッキから客室に入り、そこにゐた学生たちに聞きました。
今、そつちに一人ゆかなかつたか?
学生たちは顔を見合はせます。
いいや? 誰か来たか?
お互ひ顔を見合はせたあと、
いや、誰も来ないよ。
やつぱり、あいつは落ちたんだ。
A氏が言ふと、みな大慌てです。とにかく汽車を止めろ、といふことになつて、車掌に誰かが報告します。車掌はブレーキをかけました。
汽車はもうトンネルを少し出てしまつてゐました。ぎりぎりと音を立てて、車体をきしませながら汽車が止まります。運転手もなんだなんだと、降りてきました。
さうして、みなで線路を伝つて走ります。
おーい。ゐたかあ??
汽車中大騒ぎです。なんだなんだと窓といふ窓から顔が出てゐます。
トンネルに向かつて、学生たちが走ります。
おーい。ゐるかあ??
前の方の車輌の学生たちは何がなんだかわけがわかりません。なんだなんだ、どうしたんだ??
ああ、あいつは死んだのかな。
A氏は走りながら思つたさうです。
しかし、事件は意外な結末に。
トンネルから、腰をさすりながら、例の学生が出てきたのです。
おー、いてえ。
と間の抜けた声で言ひながら。片手には、しつかりと本も握られてゐます。
おお、どうした。無事だつたのか。
みなが例の学生を囲みます。
なんと、怪我一つしてゐなかつたさうです。少々腰をぶつけたやうですが、たいしたことはなかつたさうです。
戦前の田舎の汽車でしたので、ずゐぶんのんびりと走つてゐたのですね。