dé-dialectique

kimikoishi2007-07-22

個人と全體の間というものは、いろいろと問題をはらんでいます。

個人を中心にものを考えてみます。個人の世界は大變狹いものです。個人の諸事情によってそれは各種各樣のものとなります。ある程度は他人と相亙る領域はあるものの、そこは他人はやはり他人です。たとえば、己が苦しみを眞の意味で分かるのは己だけです。また逆に、己の苦しみの眞の姿は、實は他人にしかわからないということもありえます。己というものは眞に孤獨なものです。
ですから、個人を中心に考えると、全體を考えるのは難しいことになります。個人にとって全體は常に他者であるからです。

それでは、全體を中心に考えてみます。これは容易に政治と結びつきます。全體を考えるとは、普遍について問うことであり、神や共同體が主役となります。これは、政治の動向を考える時には必要な視點です。個人の事情だけで全體を左右すれば、全體はばらばらになってしまうでしょう。しかし、全體からの思考は容易に個人を壓殺します。これはマルクス主義や資本主義の歸趨が容易に示すところでしょう。

この中間を定めるのは大變困難なことです。思想というものはこの中間に賭けられているわけです。

エドワード・サイードがかつて個別と普遍の調停の重要性について述べていました。

しかし、これに対して、「普遍」について語るということはそもそも終わったことではないのか? なぜなら、一頃、論壇をにぎわせたポストモダンというものは「普遍」を語ることをやめるべきで、その手前の境域で問題を語るべきだと主張するものではなかったのか? そうであれば、いまさら普遍について語ることは逆行以外の何者でもないのではないのか? こういった批判が投げかけられることがありました。

しかし、手前の境域にとどまるのは、普遍を無視してもよいと言うことではないと思います。普遍はいつの間にか侵食してくるものです。普遍を無視すると言う語り口の基準は、そもそも普遍ではないと言い切れるのでしょうか。

構築主義」という言葉を駆使する人の一部には、普遍の脅威をまるで知らぬかのような単純さで、歴史的事象を粗雑な尺度で語るだけでよしとする安易な態度に終始している傾向が見られます。もっとも、そんな人は一部であろうし、一部であると思いたいのですが)

それは、すぐに答えの出るものではないでしょう。だが、人はすぐに答えをほしがるものです。なにしろ個人の生命には時間空間ともに限りがあります。しかし、すぐに出る答えはたいがい碌なものではありません。

碌でもない答えの一つは「英雄」でしょう。たとえば、戰爭時はさかんに個人の英雄ぶりが説かれます。英雄は國を守るために戰います。そして、英雄は國を守るだけではありません。個人の生活においても勝者です。英雄は愛する人、家族を守るのです。アメリカ映畫によくある英雄像は、いはば全體と個人を結ぶ理想像です(もちろん、共産圏でも英雄は人気です)。

しかし、その理想像は歪んだものです。全體や普遍はそこにはなく、個人もそこにはありません。英雄の傍らには、一將功成りて萬卒枯る、の死屍累々の情景しかないでしょう。

英雄は遠ざけるべきこと。しかし、英雄への依據は、實は樂なことです。不安は解消されます。英雄を喪って、なおどう生きるかは、なかなか答えの出るものではないと思います。