臺灣桃園國際機場

今年はぶた年

先日、友人夫婦とその子供である女の子二人と、神社にゆきました。

神社で、友人が女の子に五圓玉をあげました。

女の子はその五圓玉を賽錢箱に放り投げて、熱心に拜んでいました。

わたしも二禮二拍一禮をしました。賽錢は入れませんでした。

すると、それを見た女の子が、自分のがま口を取り出して、十圓玉をくれました。

きっと、お金がないと思ったのでしょう。

あとで、わたしはそのお禮に、台灣の一圓玉を上げました。

女の子は台灣の一圓玉を見て、禿げちょびんだ、變だあ、と言いました。

禿げちょびんとは、一圓玉に彫られた蒋介石の肖像です。たしかに、思い切りよく禿げています。


台灣の貨幣の肖像は、孫文孫中山)と蒋介石(蒋中正)の二種類なのですが、不思議とどちらも禿頭です。

そういえば、日本の貨幣には肖像がありません。また、もし肖像があったとしても、禿げちょびんではないかもしれません。

日本のお金は、禿げちょびんの人の肖像を選ばないという鐵則でもあるのでしょうか。

肖像に髮の毛があったほうが、僞造しにくくなるのかもしれません。今後、肖像に禿げちょびんが選ばれることはないのでしょうか。森鴎外西田幾多郎の肖像がお札に載ることは、どうもなさそうです(政治的な理由で選ばれないのでしょうが・・・)。


蒋介石(台灣では普通、蒋中正と呼びます)と言えば、台北の國際空港は蒋氏にちなんで、長らく「中正國際機場」と稱してきたのですが、2006年9月に「臺灣桃園國際機場」または「臺灣桃園國際航空站」に名を變えたそうです。http://www.taoyuanairport.gov.tw/CKSchi/ 

桃園は、國際空港のある場所の地名なのですが、とても甘美な名前です。西王母でも居そうな雰圍氣です。

改名の由來は、獨裁者が君臨した過去のイメージを消すことにあるようです。蒋介石の名殘りと言えば、台灣の町の通りには「中正路」というのもあります。さすがに、これは變えないと思うのですが。


蒋介石と言えば、1947年に、台灣では知らぬ人のない「二・二八事件」という事件がありました*1

50年間の統治を經て、1945年に敗戰國となった日本が台灣から撤退して以降、台灣は大陸本土の中華民國政府によって統治されることになりますが、大陸出身者(外省人)が台灣人(本省人)を微に入り細にわたっていろいろと暴力的に差別をしました。

差別されつづけた民衆の怒りは蓄積する一方でしたが、ついに市場で無辜の民が銃殺されるという騷動をきっかけに、怒りはにわかに沸騰して、台灣全土での民衆蜂起に至ったのが、二・二八事件です。

しかし、この蜂起は呆氣なく國民軍に制壓されてしまいます。台灣は戒嚴令下に置かれて、結果的に28000人もの民衆が殺されました。

この時の戒嚴令(要は、軍が政府實權を握る状態になります)は、なんと1987年まで續きます。

1987年まで、台灣は名目上は内亂状態にあったということになります(同時に大陸本土と臨戰状態にもあり、現在もそれは續いております)。1980年代までは、鐵道のトンネルや橋のたもとには兵隊が配置されて、共産勢力によるテロを警戒していたそうです。無論のこと、こうした施設の撮影はできませんでした。

もちろん、嚴しい言論統制も敷かれます。恐怖政治が時によって強弱はあったものの、40年以上續くことになりました。

以前、日本に留學した台灣の女性と話す機會がありましたが、1980年代までは、近所の家に、夜中にいきなり憲兵が踏み込んできて、その家のおじさんが連れられて、その後二度と歸ってこなかったというようなことが、日常茶飯事だったそうです。

李登輝總統が就任して以來、蒋介石由來の軍による統制状態と恐怖政治は一掃されて、民主化が果たされました。この李登輝が總統を退任してから、病氣の治療と、同級生に會う(李氏は京都帝國大學出身)ためという非政治的な用件で來日しようとしたら、中國共産黨の御意向をわざわざ汲んで、これを阻止しようとした政治家が何人かおりました。

蒋介石の獨裁政治があまりにも恐ろしいものであったので、日本治世下のほうがよかったという人も少なくないそうです。しかし、日本軍も日清戰爭後の台灣占領時に多數の人を殺戮していますし、その後も1930年の霧社事件*2などの悲劇を散發的に引き起こしています。蒋介石の治世よりましであったと言っても、治世に伴う殺人が道義的に免責されることはないでしょう。


先の台灣の女性は、兩親とは中國語(北京語)で話し、祖父母とは日本語で話したそうです。そして、兩親と祖父母は台灣語で話すそうなのです。兩親は日本語を知らず、祖父母は中國語が不如意で、そしてくだんの女性は台灣語が分からないそうなのです。台灣の歴史の複雜さを思わせる話だと思いました。