続 みづうみ
(承前)
雪の道をやっとのことで登って、おそろしい坂をも下ったのですが、みづうみはすっかり凍っていました。
周囲の真っ白な雪とみづうみの区別がつきません。
こんなこともあるさ。
と、口をきつねのようにあけて、ぽかんと見ておりました。
びうびうと風が吹きます。
くびまきをとばされそうになって、我にかえると、そうそう。我にかえる。かえろうと思いました。
自動車に乗り込んで、広場を去ることにしました。
雪道をのろのろと走ります。
さっき下った坂はかなり急でしたが、うまく登れるかどうか、すこし心配でした。
さて、坂が目前に迫ってきました。
まあなんとかなるだろうと、坂を登ってゆきました。
悲壮な決意の中、映画「二百三高地」で鳴り響いていた突撃喇叭を思い出しました。のらくろ小隊長がこんな時についていてくれたら、どんなにか心強いことでしょう。
ごろろろと音を立てて、坂を登ります。少しつるつるすべっているような気もしますが、まあ気にしないことです。
ハンドルをまっすぐにして、わだちを選んで、自動車を走らせます。
よしよし、いい具合だぞ。
しかしです!
前方から何かが来ます。
おや?なんだろう。
なんだか小さなものです。
ごろごろろと自動車は登ってゆくのですが、小さなものがだんだん大きくなってきます。
あっ!
それは、さっき坂を降りるときに出会ったいぬでした。
いぬはまっすぐこちらにむかってきます。
おお、こまった。よけてくれないかなあ。
自動車といぬの距離はどんどん狭くなってゆきます。
ああ、なんと。いぬは躊躇せずまっすぐに向かってきます。あんまり寒いので、やけになっているのでしょうか?
よりによって、いぬはわだちを進んできます。歩きやすいのでしょう。「想像力」(構想力)は人間にだけしかないのでしょうか?
仕方ありません。わたしはブレーキをかけました。
坂の途中で自動車が止まります。
いぬはすすすと、寄ってきます。窓の下に来たのです。
なにかくれるのかい?
いぬはじっとこちらを見ています。
なにもあげるものはないなあ。
いぬは想像力で、これはもうくれないなと判断したのでしょう。
のそのそと歩いて、坂を降りてゆきました。
わたしは自動車を走らせようとしました。
ぐごごごご、とすごい音がしました。ぐるるるとエンジンもうなります。
あれ?
音はすごいのですが、一歩も進んでいないのです。
ああー。
わたしは遭難することになりそうです。
自動車はぐがぐがうなるだけで、もはや一歩も進んではくれないのでした。
先に引いた「詩篇」のつづきは
御言葉を遣わされれば それは溶け
息を吹きかけられれば 流れる水となる
です。神は雪や氷を人間に吹きかけます。それは耐えがたいものです。しかし、神はその雪や氷を溶かすものを与えてもいると言うのです。
そして、それは「言葉」であると言うのです。
Jacques Derridaは Foi et Savoir(『信と知』)で、語ることの重要さを説いていますが、その語る言葉は、いったいどのような言葉なのでしょうか?
有史以来、これほど言葉が氾濫している時代も少ないでしょう。アメリカが軍事用に開発したという情報回線が、インターネットとして世界に「開放」されて以来、雪や氷を溶かす言葉はどれだけ語られたのでしょう。
いぬにとっては、言葉なんかいらない。えさをくれというところでしょうが・・・
それはともかく、雪の坂道の途中で、うっかり自動車を止めてはいけないのですね。学習しました。