続 みづうみ

kimikoishi2007-02-23

(承前)

雪の道をやっとのことで登って、おそろしい坂をも下ったのですが、みづうみはすっかり凍っていました。

周囲の真っ白な雪とみづうみの区別がつきません。

こんなこともあるさ。

と、口をきつねのようにあけて、ぽかんと見ておりました。

びうびうと風が吹きます。

くびまきをとばされそうになって、我にかえると、そうそう。我にかえる。かえろうと思いました。

自動車に乗り込んで、広場を去ることにしました。

雪道をのろのろと走ります。

さっき下った坂はかなり急でしたが、うまく登れるかどうか、すこし心配でした。

さて、坂が目前に迫ってきました。

まあなんとかなるだろうと、坂を登ってゆきました。

悲壮な決意の中、映画「二百三高地」で鳴り響いていた突撃喇叭を思い出しました。のらくろ小隊長がこんな時についていてくれたら、どんなにか心強いことでしょう。

ごろろろと音を立てて、坂を登ります。少しつるつるすべっているような気もしますが、まあ気にしないことです。

ハンドルをまっすぐにして、わだちを選んで、自動車を走らせます。

よしよし、いい具合だぞ。

しかしです!

前方から何かが来ます。

おや?なんだろう。

なんだか小さなものです。

ごろごろろと自動車は登ってゆくのですが、小さなものがだんだん大きくなってきます。

あっ!

それは、さっき坂を降りるときに出会ったいぬでした。

いぬはまっすぐこちらにむかってきます。

おお、こまった。よけてくれないかなあ。

自動車といぬの距離はどんどん狭くなってゆきます。

ああ、なんと。いぬは躊躇せずまっすぐに向かってきます。あんまり寒いので、やけになっているのでしょうか?

よりによって、いぬはわだちを進んできます。歩きやすいのでしょう。「想像力」(構想力)は人間にだけしかないのでしょうか?

仕方ありません。わたしはブレーキをかけました。

坂の途中で自動車が止まります。

いぬはすすすと、寄ってきます。窓の下に来たのです。

なにかくれるのかい?

いぬはじっとこちらを見ています。

なにもあげるものはないなあ。

いぬは想像力で、これはもうくれないなと判断したのでしょう。

のそのそと歩いて、坂を降りてゆきました。

わたしは自動車を走らせようとしました。

ぐごごごご、とすごい音がしました。ぐるるるとエンジンもうなります。

あれ?

音はすごいのですが、一歩も進んでいないのです。

ああー。

わたしは遭難することになりそうです。

自動車はぐがぐがうなるだけで、もはや一歩も進んではくれないのでした。

先に引いた「詩篇」のつづきは

御言葉を遣わされれば それは溶け
息を吹きかけられれば 流れる水となる

です。神は雪や氷を人間に吹きかけます。それは耐えがたいものです。しかし、神はその雪や氷を溶かすものを与えてもいると言うのです。

そして、それは「言葉」であると言うのです。

Jacques Derridaは Foi et Savoir(『信と知』)で、語ることの重要さを説いていますが、その語る言葉は、いったいどのような言葉なのでしょうか?

有史以来、これほど言葉が氾濫している時代も少ないでしょう。アメリカが軍事用に開発したという情報回線が、インターネットとして世界に「開放」されて以来、雪や氷を溶かす言葉はどれだけ語られたのでしょう。

いぬにとっては、言葉なんかいらない。えさをくれというところでしょうが・・・

それはともかく、雪の坂道の途中で、うっかり自動車を止めてはいけないのですね。学習しました。