芿瀧蹣跚

kimikoishi2006-04-02

山陰線の保津峽驛から、保津川、芿瀧川に沿つて山道をゆくこと約半里。峽谷の隱れ里、芿瀧は、もうすつかり夜に裹まれ、高い山山の中穹には、皎月が掛かり、怪し氣な光を晧晧とはなち、溪流の水面の漆黒を照らし、白く流星のやうに、川下へと絶え間なく光は流れてゆきます。

あたり周圍は深閑として溪流のさらいふ音を除いては、物音一つしませんでした。月影がしんと音をたてゞでもゐるかのやうな、そんな幻聽を呼び起こさないではゐない、寔にしづかな夜半ではありました。

時計を月影にすかして見ると、ちやうど一時でありました。其處で、手ごろな丸石を二つ足元からひろつて、一番大きな巖の上に立ち、がちとそれを打ち合はし、がちへへと三たび鳴らした處で、丸石を二つ共、うしろにはふつて、巖のうへにすわりなほし、さうして、何時迄もぢつと、流れる川面を見てをりました。

軈て―――小半時もたつた頃、ざわへへと水面が亂れたか、と思ふと、ぬつと懷かしい友だちが、顏を出し、そしてやあと云ひました。かれは”仙龜”といふ名の、五千年以來ずつと、此の清滝に住みついてゐる大龜です。

龜と云つても五千年以上生きてゐる丈けあつて、なか其處らの”凡龜”とは比べものにはならず、羽化登僊した、いはゞ仙人のやうな存在で、之迄もたびかれから繁へを受け、それゆゑにかれとは友人であるよりは子弟の關係にあるのですが、かれ自身が師であるよりかは、君とは親友でありたいと、さう云ふので、僭越乍ら、それを受けいれさせて貰つてゐる仕題なのです…………

とにかく、かうして会ふのも一年ぶりで、びたと巖を前足でたゝき、「おゝ、之は葡萄酒ぢやないですか!難有い。是非、御馳走になりますかな」と目を細めます。

仙龜はなかイカラで、持つて來た琥珀葡萄酒の壜をかゝへ、うつとりと目を細めたりなんぞしてゐます。かれは琥珀葡萄酒がすきなのです。

壜を割れないやうに、此方に注意深く渡してから、仙龜はざぶと水から上がつて、平たい岩のうへに登つて来ました。壜を持つて其方に向ふと、何時の間にやら仙龜はちゆうりつぷの花のやうなものを二つ持つてゐて、一つを此方に手渡しました。盃の心算なのでせう。

其處で、こるくの栓を手早く拔き、仙龜の花盃に葡萄酒をなみとついでやりました。深紅の酒水は、月影のなかに盃にうづ卷き、注いでも、いつかうに、いつぱいになる氣配がありません。

又た壜からも、瀑布の如く葡萄酒は奔出し、さらに止む氣配がありません。ざわと鳴る渓流の音はすさまじく、滿月は妖しくまばゆいばかりの光をこちらに投げつけて来ます。

深紅の水は永遠に、今、天穹を龍がうねと横切つてゆきます。溪谷の奔流。天龍、穹を舞ひ、月、皓皓として邊り暗し。ぎらと龍の鱗が光る。皓皓として邊り暗き。―――

「や、もういゝですよ」といふ声で、いつたん我にかへりました。仙龜は自分の酒盃を置いて、壜を寄越すやう、手を出しました。今度は仙龜が注いで呉れようといふのでせう。もう一つの酒盃に、さつと深紅の瀧水が落ちる。天龍、穹を舞ひ…………