龍膽寺雄

kimikoishi2007-02-19

龍胆寺雄明治34年茨城県の下妻に生まれて、主に昭和初期に活躍し、平成4年に亡くなつた小説家です。*1

わたしは高校生の時に、龍胆寺の作品を愛読してをりました。龍胆寺については、以前にも少し書きましたが(http://d.hatena.ne.jp/kimikoishi/20060331)、昭和モダニズムを象徴する人と言へば、まさにこの人を措いて他にないのではないかと思ひます。

龍胆寺は医学部を中退して作家になつたといふ異色の経歴を持つてをり、昭和3年に「放浪時代」によって、改造社(今はありませんが、戦前の大出版社です)の新人文学賞の懸賞で一位になり、文壇に華々しく登場しました。

しかし龍胆寺は、ねつとりした村社会的な文壇政治には、とりわけ合はない天衣無縫な人であつたために、文壇を追放されてしまひます。昭和9年のことでした。昭和10年代には、高円寺から大和市の中央林間に移り住んで、シャボテンの研究にいそしむやうになります。そして、シャボテン研究の第一人者になりました。

中央林間の自宅は龍胆寺が設計したもので、小さな塔があり、風見鶏がついてゐます。自宅家屋だけは今もそのまま残つてゐます。残念ながら、風見鶏はどこかへいつてしまつたやうですが。

龍胆寺はとにかく変はつた人であつたやうで、そして凝り性だつたやうです。かういふ人は大樹に依れば安泰なのかもしれませんが、大樹に依らないと大変な人生になるやうです。

龍胆寺は文壇からは追放されてしまひましたが、生涯現役の作家でした。戦後の一時期、高橋鐵が主宰した『あまとりあ』といふ性科学の雑誌に参加して、独特の文章を書いたりもしてゐます。晩年も、雑誌や新聞に、数は多くないものの、小説やエッセイを書いています。『シャボテン幻想』といふ本を新聞社から出したりしました。また瀟洒な装丁で知られる奢覇都館から、『塔の幻想』といふ横長の美しい箱入りの白い本を出してもゐます。どれもこれも、龍胆寺でなくては書けない味のある独特の文章です。

1980年代には、一寸した1920年代・30年代のブームがありまして(『アンアン』といふ雑誌が昭和モダニズムを特集したこともありました)、龍胆寺の名が取り上げられることが多くなりました。その余波で、昭和59年には全12巻の全集(実質は作品集)も刊行されました。最晩年には、龍胆寺は雑誌『太陽』の表紙のグラビアモデルとなつて登場したこともあります。

しかし、そこに至るまでには、作家としては不遇の状況が続きました。昭和9年に文壇から追放されてからは(よりによつて文壇の大御所に嫌はれたために)、龍胆寺は発表の場所の多くを失つてしまひました。これは、文章を書く人にとつては、とても辛いことです。今のやうに、インターネットなど、もちろんない時代です。

とは言へ、龍胆寺はそれでめげる人ではなく、晩年に至るまで大量の小説を書いてゐます。もつとも、刊行されたのは一部だけで、未発表の小説が大量に残されてゐるやうです。

龍胆寺は発表するあてがとくにないにもかかわらず、一貫して書き続けるといふことをやめなかつた人でしたが、これは想像以上に大変なことであると思ひます。わたしはもちろん作家ではありませんが、これは見習はなければならない態度であると思ひます。

人の批判をするのは簡単です。人の仕事をけなすことも簡単です。人の仕事を正当に評価してほめるのは、それはなかなか難しいことなのですが、手放しの礼賛はごくごく簡単です。しかし、胡座して、他人の仕事を羨望し、あるいは痛罵するだけでは、その人の為すことには何の意味もないのではないでせうか(これは、自戒を込めて云ふのですが)。

これに対して、無から起こす仕事をするのは大変なことであると思ひます。しかも、批判しか受けないであらう。あるひは、批判さへされないだらうといふ仕事を続けるのはとても困難なことであると思ひます。しかし、さうした仕事は誰にあつても、一度は必要になることなのだと思ひます(なかには、ない人もゐるのでせうが)。

最晩年に、わたしは龍胆寺氏から書簡を戴きました。自分にとつてなにより大切なのは愛読者であり、それは精神的血族なのだと書いてありました。それだけに、愛読者をもたぬかもしれない未発表の作品を大量に書き続けることができた龍胆寺の精神の強靭さは、分野こそ異なるものの、見習はなければならないと思ひました。