レストラン

kimikoishi2007-02-10

大学生の時、わたしが好んで通つてゐたレストランがありました。

レストランはお寺の門前町にありました。

お店は平屋の木造家で、格子戸をがらがらと開けて入ります。

さうすると、シェフがはい、どうぞいらつしやいと迎へてくれます。わたしは上得意客で顔なじみです。しかし、シェフは馴れ馴れしく話し掛けてくることは決してありません。それでも、心は通つてゐるのです。

シェフは年齢不詳のおばあさんでしたが、戦争未亡人といふ話でした。お店をたつた一人で切り盛りしてゐます。

わたしは丸椅子に腰掛けます。

はい、なんにしましよ。とシェフは言ひます。

さうだなあ。

と、わたしは壁にかかつたmenuの短冊を眺めます。短冊は壁一面を覆ひつくしてゐまして、ざつと100以上はあります。シェフのレパートリーの多さは並のものではありません。数へたわたしも並みの暇人ではないのかも知れません。

ぢやあ、からあげ定食をお願ひします。

シェフはうなづいて、厨房に入ります。間もなく、包丁の音がして、シェフは素手でからあげを揚げはじめます。戦後以来何十年も腕をふるつてきたシェフです。指はものすごく分厚いのです。

この店のから揚げ定食は400円です。ごはん、もやし入りみそしる、たくあん、からあげ、キャベツの千切り、マカロニのサラダのセットです。普通の店なら安くても600円くらゐはとるところを、400円なのです。わたしはシェフの学生に対する暖かい配慮を感じてゐました。なにしろ、とれるところからは可能な限り搾取しようとする世知辛い世の中です。シェフの経営努力は顧客への愛を感じました。

わたしはこの店にはシェフの愛情があふれてゐると思つてゐました。それで、よく通つてゐたのです。

しかし、残念ながら、あまりきれいな店とは言へず、それはそれで味はひなのですが、虫がお好み焼きの鉄板の上を這つてゐたり、ごはんやみそしるのなかに羽虫が入つてゐることもありました。わたしはドリトル先生ではありませんが、それでも平気で通つてゐました。ですから、不二家のお菓子に虫が入つてゐたことくらゐで大騒ぎになつてゐるのが、わたしには解せません。

わたしなら、虫が入つてゐたら、こらこらと会社に言へば、お詫びに、なにか他のお菓子を併せて呉れるかもしれないと、わくわくしてしまひます。わたしが恐れるのは、むしろ客の苦情を恐れて、食品会社が製品を絶対に腐らない、清潔な化学物質のかたまりにしてしまふことです。そのはうが遥かに怖いです。

化学物質のかたまりにしても、その毒は遅効性でじわじわと効いてくるものですから、それですぐに人が死んだりはしません。ですから、人体に影響はないと会社は言ひ張ることが出来ます。10年たつて病気になつても、因果関係の証明は不可能です。そんなものをたべさせられることになるくらゐなら、虫が入つてゐるくらゐのはうがわたしには安心です。

それはともかく、わたしはそのレストランに通ひつづけました。わたしは勝手にこの店を誇り、いろんなひとを連れてゆきました。男は勿論、若き女性も連れてゆきました。その時は、虫の話などの余計なことは言はずに、シェフがいかに素晴らしいかを力説しました。

わたしは週に何度か、この店に飽かず、通つてゐました。しかし、わたしはシェフと一度も話らしい話をしたことはありませんでした。注文に要するありきたりの会話以外の話は、一切したことがないのです。シェフはいつもにこにこと笑つてゐて、学生が好きなのだらうと思ふのですが、きはめて寡黙な人でした。

でも、たつた一度だけ、話らしい話をしたことがあります。

それは、ある寒い冬の夜でした。

店にはストーブが置いてあります。わたしはそのそばで、おでん定食をたべてをりました。これも、400円です。半月近く漬かつてゐると思しい茶色のたまごが、わたしのお気に入りでした。

四角いなべに漬かつてゐるおでんの表面には、ほこりがたくさん浮いてゐましたが、それもまあご愛嬌です。わたしたちの暮らしがなんでもかんでも清潔になつたのは、クーラーが完全普及した頃からのことです。ついこの間のことです。ですから、なに、かまふものか。

店には、客は他にありませんでした。ストーブの上には、やかんが置いてあり、湯気をひうひうと出してゐました。

わたしはおでん定食を食べ終はると、窓の外を何気なく見ました。

ああ・・・

雪だ。

雪がちらちらとふつてゐたのです。

わたしは立ち上がりました。曇つた窓をふいてみると、雪がたしかに霏霏としてふつてゐます。あたりはいつのまにか、薄く雪がつもつてゐて、ぼんやりと白くなつてゐました。街頭が放つ黄色い光のまはりには、糸が落ちるかのやうに、雪がさらさらと勢いよくふつてゐるのがよく見えました。

雪ですな。

渋い声でぼそりとシェフが言ひました。気付くと、わたしのうしろにシェフがゐて、目を細めて窓の外を見てゐます。シェフの一言に、

道理で、今日は寒いですね。

と、わたしは冴えない言葉を返しました。シェフはうなづきました。さうして、厨房にひつこむと、熱い緑茶を入れて、わたしのコップについで呉れました。

おお、ガラスのコップに!!

わたしはコップが割れないかと、ひやひやしたのですが・・・

宵の雪はやみさうもありません。シェフは隅つこの椅子に座つて、お茶を飲んでゐます。わたしも熱く薄いお茶をありがたくいただいて、さうしてぼんやりと窓の外を眺めてゐました。