対話の可能性

kimikoishi2007-02-02

ある人が雑誌の対談を見ておりました。それは、学術系の一般向け雑誌でした。そして、その人は嘆息して、次のように言ったのです。

よくもまあ、こんなにいろんなことを覚えていられるものだなあ。

その対談は学者二人によるもので、本の名前や本の引用が次から次へと出てくるのでした。どうも、そのことに感心したようでした。

ああ、でも・・・・・・

わたしは言いかけて口をつぐみました。不確定なことは言わない方がいいと思ったからです。

わたしが言おうとしたのは、その対談に出てくる本の名前や正確な引用文は、もちろん全部ではないにしても、対談が終わったあとに、対談の参加者が後でこっそり付け加えているのだから、その場で言ったことではないかもしれないのだ、という余計なことでした。

まあ、でも、それは余計なお世話というものですので、黙っていました。対談の二人はほんたうにその場で言ったのかもしれないし、対談の内容自体は悪くないものでしたので、けちをつけるのは下品だと思って黙ったのです。

ただ、対談の「事後編集」について不案内な人がいるかもしれないということが分かりましたので、そのことに一寸触れてみようと思いました。

わたしは対談の原稿をまとめる手伝いをしたことがあります。

それは、ある大学の教員二人による対談だったのですが、対談はもちろんテープレコーダーに吹き込んであります。それを出版社の方が、聞き取って、原稿に起こします。

わたしは、この原稿を整理して、しゃべり言葉を書き言葉に直して、内容にある程度の統一性をもたせればいいわけなのですが(もちろん、この作業は最低限に留めるものです)、簡単なようで、これは予想以上に面倒なことでした。

人間というものは、結構いい加減な言葉でしゃべっているものなのだなあと感心したものです。

単独の人物による講演などは、一筋に理路が整理されていて(講演者がきちんと準備している場合、また完璧な準備をしていなくても講演慣れしている場合などに限りますが)、話し言葉を書き言葉に変えるだけで、そのまま原稿に起こすことが可能だったりするのですが、対談はそうはゆきません。

なにしろ、一人が放った言葉が、もう一人によって飛躍させられて、そのままどこかへいって消えてしまったり、同じ人の話でも、前半でしゃべっていることと、後半でしゃべっていることがすっかり分裂していたり、とにかく人間が複数いて、その場の空気の中で醸成される言葉のやりとりというものは、どうしてこうもミョウチキリンになってしまうものなのかと、驚きあきれ果ててしまいました。

(しかも、それは発表者が一人いて、まず「軸」を出して、それについて、あとで複数の人間がディスカッションするというのであれば、まだましなのです。この場合は、そもそも「軸」があるので、支離滅裂にはなりにくいのです)、

もっとも、その瞬間瞬間の話の内容は面白いものでした。しかし、部分的にでも、ある程度の統一性を持たせなければ、なにがなんだかわからないものになってしまいます。さらに、わたしの越権で、著者の思惑を超えたことを次から次へと足してしまってはいけません。

その上、厄介なのは、引用の不正確なことでした。外国語の固有名詞などをさらりと出されることもあるのですが、出版社の方がそれに通じていないことがたまにありますので、聞き取った上、さんざん苦しまれたのでしょう。意味不明のカタカナが書いてあったりします。それがなんであるか、見当をつけることは至難の業です(しかも、わたしはその対談の参加者の専門分野については、どちらかと言うと不案内でした)。

結局、テープを取り寄せて確認しましたが、それも聞き取りにくく、大変な作業になりました。

また、引用文も不正確なことが多く、あまつさえ、そもそもそんな引用文はなかったりします。

大変な苦労をして、わたしは下原稿をつくりました。この下原稿が対談に参加した人たちに回されまして、一人一人がさらに筆を入れるのです。

ですから、対談として活字になっているものは、場合によっては、もともとの対談で話されたものとは、まったく異なったものになっていることがありえるのです。

現に、わたしは、昔の雑誌に載っていた対談で、こんなのを見たことがあります。すなわち、「対談の参加者が後でどんどん朱を入れて、内容を自分に都合よく変えてしまうので、支離滅裂になっている。その時、彼はこんなことを言っていなかった」、と対談者の一人が朱を入れているものです。それは、数人が二手に分かれて烈しくやりあっている対談でしたが、たしかに支離滅裂になっていました。

話すことと書くことが違うというのは分かってはいましたが、対談という空気はさらに厄介なものを持ち込んでしまうようです。対談の名手、ソクラテス先生はそんな点もうまくおさえていたのでしょうか。