檸檬

国立駅

うちのいぬが、にわでわんわんとほえました。

わたしを呼んでゐます。ちやうど、書物のきりの悪い所を読んでゐたので、一寸待つてくれとはふつておいたのですが、なほも、わんわんとうるさくなきます。

仕方がないので、本を置いて、いぬのそばに向かひます。

いぬは檸檬の木の下にゐました。さうして、あれをとつてくれと言ふのです。

いぬがとつてほしいといふのは、檸檬の実です。

だめだよ。それはおもちやぢやないよ。

わたしはさう言つて、うちにはひると、本を読み始めました。

いぬは檸檬をころがして遊ぶつもりなのです。どうも、ボールだと思つてゐるらしいのです。

わたしは檸檬が大の好物ですから、一寸それは勘弁ならないことなのです。しかも、ひとつだけだよと言つて、先日檸檬をもいでやつたばかりなのです。

わたしは檸檬をそのまま食べるのが好きです。ファミリーレストランなぞの飲み放題といふのに、紅茶用に檸檬を薄切りにしたものが置いてあることがあります。

わたしはさつそく、それをもらつて、そのままもりもりとたべるのです。どうも、けふは檸檬がなくなるのが早い。檸檬ティーばかり飲む変な客がゐるのかな、とお店の人は思つたことでせう。迷惑であることは承知してゐます。でも、少しくらゐよいではありませんか。

フランスには檸檬を絞つた100%ジュースがあります(citron presse)。一瓶2ユーロしなかつたと思ひます。280円しないといふことです。

100%ですから、すつぱいです。なんに使ふものなのかわからないのですが(レモネード用?)、スーパーにはどこでも売つてゐます。

わたしはこれを大喜びで買ひもとめました。さうして、がぶがぶと飲みました。

でも、日本のスーパーには100%シトロンジュースはないのです。あることはあるのですが、ごくごく小さなびんで、しかも驚くほど高価です。残念なことに需要がきはめて少ないのでせう。

さういへば、檸檬で思ひだしましたが、松田優作主演の映画で『野獣死すべし』といふ映画があります。

そこで、松田優作演じる主人公がリップ・ヴァン・ウィンクルの話をします。

リップ・ヴァン・ウィンクルは小人にさそはれて不思議な世界にゆき、おいしいお酒を飲ませてもらひます。美酒に陶然となつて、すつかり時を忘れてゐたのですが、気づくと何十年も時がたつてしまつてゐたといふ浦島太郎に似た話です。

その小人にのませてもらつたおいしいお酒がなんであつたかは、もともとのお話にはないと思ふのですが、映画では、ラム酒1にクァントロー(cointreau)1*1、それにレモンジュース0.5を入れたものといふことになつてゐました。XYZといふ名のカクテルです。

実は、わたしがはじめて知つたカクテルの名前が、このXYZなのです。

ある時先輩とバーにいつたのですが、カクテルなぞ初めてで、なにがなんだかわからないので、先輩にお薦めはありますか、と聞くと、XYZを頼んでくれました。そして、

これは、女性を酔はせて其の気にさせるお酒だよ。と教へられました。

先輩はわたしに気があつたのかもしれません(註、先輩は男)。そんなものを飲ませたのですから。まあ、それはさうと、わたしは大いにXYZが気に入りました。

XYZに檸檬が入つてゐたとは知りませんでしたが、あとで知りまして、なるほどそれで気に入つたわけだ、と膝を打ちました。

わたしは先輩に教へられた特殊用途より、自分が飲むはうがよほどうれしくて、それ以来、どこのバーに連れられても馬鹿の一つ覚えでXYZをたのみます。

それほど好きな檸檬なので、つひに、その日はいぬには檸檬をもいであげませんでした。いぬはうらめしさうな横目で、ちろりとわたしをみました。