石田徹也

kimikoishi2006-09-23

先日の日曜美術館で「石田徹也」といふ画家を取り上げてゐました。

石田氏は1973年生まれで、31歳で亡くなつたさうです。

寡聞にして、この方のことは知らなかつたのですが、とても印象的な絵を描く方です。

http://www.cre-8.jp/snap/390/index.html

わたしはあまり現代美術は好んで見ないのですが、それはテーマ性が強すぎるきらひがあるからです。

パイプの絵の下に「これはパイプではない」と描かれたマグリットの絵がありますが、そこにふくまれたテーマを無視しても楽しい絵として見ることができます。そのマグリットのよさは、絵の精緻さがなかつたら、はたしてあつたのでせうか。技術的なものをまつたく感じさせない、テーマだけが先行してゐる絵は、わたしはどうも好きになれません。

註釈がいつぱいついた、がらくたのやうな展示品も苦手です。塑像なら、フランシス・ポンポンのやうな生命力のある美しい曲線があればよいのです。でも、がらくた系はゴミ屋敷のやうで、わたしの好みには合ひません。わたしの感覚はとても保守的なのだらうとは思ひますが、かういふものはなかなか変はることはないやうです。

美しさという諧調を破りたいといふ気持ちは分かりますが、岡本太郎の諧調のない絵にも、ある種の諧調はあるもので、ただごたごたしているだけのものには、わたしは興味がありません。もちろん、その感じ方は人それぞれなので、なにをいつても、それはわたしの好みでしかないのですが。

わたしも絵を描きたいと思つてゐるのですが、技術が追ひつきません。描きたいもの、つくりたいものはたくさんあります。それで、技術が超絶してゐるひとの絵や塑像には無条件にひきつけられるのでせう。

石田氏の絵は、その現代美術の範疇に入るわけですが、わたしはとても気に入りました。とてもひきつけられる絵です。

しかし、暗い絵です。

石田氏の人生はきつと大変なものだつたらうなと思ひました。それは、「普通」に生活してゐるひとからは決して浮かんでこないやうな絵なのです。まつたうな生活をしてゐる俗人であれば、到底思ひもよらない発想です。

「普通」に生活しないといふことは、大変なことです。とくに協調性のための努力を異常に強ひる日本では、なほさらです。

テレビの質の悪い番組をうつかり見ると、みんなおなじことを考へませうよ。おなじでないやつなんか要らないのですよ、と強烈な「普通」メッセージの洪水に息がつまりさうになります。何とかブーム? そんなものどうでもよいではありませんか。勝つとか負けるとか、そんなことを競ふのも馬鹿馬鹿しいやうに思ひます。負けてゐるやうに見えても、実は勝つてゐるのかもしれません。人にどう写るかより主観世界の明るさを大事にしたいと思ひます。

石田氏はその「普通」でないことの大変さを極限まで突き詰めて、絵にしたのですから、本人にしてみればさぞかし消耗する毎日だつたことでせう。「普通」の生活をしてゐなくても、その居心地の悪さを積極的に忘れることはできるのです。居心地の悪さを反発のエネルギーにして、否定的に働きかけてくる社会の圧力に対して、肯定の力をぶつけることも可能です。それも、もちろん大変なことですが。

しかし、石田氏は否定を突き進める道を選んだやうです。

石田氏の絵は素晴らしいと思ひました。しかし、わたしはその底のない暗さが気になりました。