アリストテレスと飛行機

しろねこ

アリストテレスによると、すべての物事を成り立たせている四つの原因があるそうです。

それは、形相因、質料因、作用因 (動力因)、目的因 の四つです。

たとえば、家を例にとって見ましょう。

形相因→家の形 
質料因→家の建材
作用因→大工さん 作る人
目的因→住むため 家がなぜあるかに答えたもの

となるのです。これらの四つの原因によって世界は成り立っていると言うのです。

そもそも、人の《意志》というものは、目的があってこそ、よく働きます。

目的因のために、形相因―自分の像(家の形)をこしらえるわけです。その目的はきちんとしたものである必要があります。目的因がいいかげんであれば、形相因もいいかげんなものにしかならないでしょう。そして、四つの原因がうまくからみあっていなければ、物事は成就しません。分不相応の望みは逸脱を招き、破滅へと至ります。

作用因は何かと言うと、それは自分でもありますが、また周囲の人のことでもあります。

大工さんである作用因が、わたしをうまくとりなして運んでくれればよいのですが、現実はなかなかそうはゆきません。

どの原因が乱れているかはすぐにはわからないものの、いつかは調子が狂って、うまくゆかなくなるときが来ます。

そうしたら、四つの原因を組み替えなくてはなりません。でも、調子がおかしいときに、どこが狂っているかを見極めることは大変難しいものです。また、どこかおかしいかがわかっても、すぐには組みかえられないものです。四つの原因は複雑に絡み合って、いままでの自分を作り上げてきたものだからです。

そして、よるべがなくなった結果、神や仏に祈ることになります。

神や仏とは、そういった祈りがくりかえされてできあがったものではないでしょうか。人は困っていない時は自らの力を信じることができますが、困っている時はそうはゆきません。

でも、苦しい時の神頼みと言いますが、必要な時にだけ神や仏に頼るのでは、うまくゆかないものなのかもしれません。そもそも、作用因がうまくゆけば、すべてが解決されるわけではありません。四原因すべてをうまく調和させなければなりません。神や仏に祈るのであれば、ふだんからそういったものと調和していなければならないでしょう。

むろんのこと、それは狂信的になることではありません。それはそれで四つの原因を狂わせます。

作用因と目的因は目に見えにくいものです。一方で、形相因は目に見えないものですが、質料因を通して見ることができます。目に見えにくいものは外にあるもので、その外に対してどのように接するか、という問題は大変重要なことです。

しかし、外のものでも、言葉で辛うじて表すことは可能です。現れなかったら、それは言葉を組みかえれば現れてくれるかもしれません。

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というようなことを、先日考えていました。

なぜそんなことを考えていたかと言うと、なんのことはない、飛行機に乗り遅れそうになったからなのです。

空港に向かう電車は、なかなか目的地に着いてくれません。結局、十五分前に空港に着いたのですが、韋駄天のごとく広大な空港をかけめぐり、空港のお姉さんに飛びついて、なんとか乗ることができそうだとわかるまでの時間の長いことといったらありませんでした。

その一時間ほど前の電車の中で、わたしは胸をきやきやとさせておりました(ちなみに、これは泉鏡花独特の表現です)。これはかなり遅れそうだ、飛行機の時間に間に合わないかもしれないと怯えておりました。でも、馬ではない電車を駆り立てるわけにも行きませんから、どうしようもありません。のろのろと各駅に止まる電車を疾走させることはできません。

あの三色の派手な装いのスーパーマンが颯爽と現れて、わたしを空港に連れていってくれれば助かるのだけど、と何度も思いました。

でも、そう思うたびに、空を飛んでいってくれるのならば、空港と言わず、目的地まで連れて行ってもらえばいいのだけどと思い直しました。

しかし、それではスーパーマンに悪いと思いました。でも、空港まででいいなどと言うと、スーパーマンの能力を見くびっているような気もします。

わたしはタクシーじゃない。

と、スーパーマンは言いそうです。やはり目的地まで連れていってもらうかな、と、やっと結論に至ったのですが、ふと我に返って、

スーパーマンなどいない。

という絶望的な現実を思い出しました。スーパーガールならいるかもしれない、と一瞬思うのですが、いやいやと首を振ります。そうしているうちに、もっと絶望的な、飛行機に乗り遅れるかもしれないという現実も帰ってきました。

そこで、わたしは考え事をして現実から逃避することにしました。その考え事が上のような内容でした。

教訓:空港には早めに行きましょう。たとえ、早く着きすぎて退屈に苦しむようなことになっても、遅れるよりははるかにましです。