佛蘭西哲學の特徴

きのふの月

九鬼周造は《フランス哲学》の特徴として、「一、内的観察の特徴」「二、数学及自然科学との密接なる関係」「三、二元論」「四、社会的」の四点を挙げています。

「二、数学及自然科学との密接なる関係」は、芸術、文学の華やかなイメージの強い「おフランス」のイメージからは遠いのですが、実は、フランスは数学や科学の国でもあるのです。フランスは今なお科学の国です。時速500何十キロだかの速度を出すTGVの例から見ても、科学的先進国です。もっとも、フランスは功利的な科学技術には長けていないかもしれません。

フランスの場合、最近までは、採算を度外視して技術開発に取り組む傾向が強かったように思います(コンコルドの例や、地下鉄のゴムタイヤの例など)。これに対して、日本の場合は、石橋を叩いて渡るような功利的技術開発が主であるように思います。一昔前はそうでもなかったのでしょうが、今は明らかに、儲からない技術開発には予算は投じなくなっています(外国技術への依存度も昔より高くなっているのではないでしょうか)。国が貧乏化していることの現れでしょう。

グローバリズムとはそういうものなのかもしれませんが、昔の子供の科学絵本のイラストが示していたような、輝ける夢の技術の時代がとっくに過ぎ去ってしまったのは残念です。リニアモーターカーは不採算を理由に消えてしまったようです(しかも、上海に先を越されてしまったようです)。東京から大阪まで一時間で行けるそうです。空港が都市から遠く、搭乗に時間が掛かる飛行機よりだいぶん有利だと思います。きっと建設費が出ないのでしょう。

科学王国の名に恥じず、フランスは科学哲学もさかんです。最近、ルクール『科学哲学』(白水社)というクセジュ文庫の翻訳が出たので、概要はそれで一覧することができます。ただし、フランスの科学哲学は疑似科学であり、文学的なものでしかないという批判も根強く、最近ではソーカル問題*1が話題になりました。問題を引き起こした本は、アラン・ソーカル、ジャン・ブリクモン『「知」の欺瞞』(岩波書店)です。

最近のフランスの哲学にも、科学哲学の伝統を引くひとがいます。カトリーヌ・マラブーはその一人です。最近来日しましたが、彼女の提示する「可塑性」の話などは、わたしはあまり好きではありません。

むろん、マラブーの解釈すべてが無意味とは思っていませんが、脳機能を政治機能として隠喩的に読んで、脳から政治の可能性を読み取るという彼女のテーマには、それほど興味がありません。「脳」cerveau の話が結局 c'est le veau(間抜け)な話にならないと良いのですが。

もちろん、それはわたしにとって興味がないということでしかありません。それが間違っているとか、正しいとか判断することは、わたしにはできません。数学も科学も不得意なので・・・

わたしならカントの『判断力批判』を政治論として読んだハンナ・アーレントの方に興味を持ちます。もう古い話かもしれませんが。それでも、科学と哲学の融合にはどうも興味がもてないのです。

「三、二元論」は、デカルトの例があります。デカルトは精神と物質を分けて考えています。メーヌ・ド・ビランは精神と物質の二元論を立てた上で前者を強調します。コンディヤックは後者を強調します。二元論の伝統は中世哲学にもさかのぼることは可能でしょう。

こうしたフランスの二元論の長い伝統に対して、ジャック・デリダが「différance」(差延)といった造語で戦闘を挑んだのは有名な話です。それでも、デリダは二元論が無意味だといったのではなく(ベルクソンへのオマージュである『信仰と知』Foi et savoirという本が示すように)、二元論の政治性を批判したのでした。

二元論はつねにどちらかが優れて、どちらかが劣ったものとして理解されてきました。同等の二元論はあまりないようです。かといって、その二元論を一元論にすればいいというわけでもありません。それはそれで、色々無理が生じてくるわけです。弁証法のように。

「四、社会的」は、コント以来の社会学の例があります。社会学フランス革命後に、フランスで発達したものです。のちにドイツに、そしてアメリカにとられてしまった感がありますが。

「一、内的観察の特徴」も、デカルトの『方法序説』が分かりやすい例です。確実でないものを取り払って考えてみる。確実なものは内(intime)にあって、それはわたしが考えている、というこのことだ、我思うゆえに我あり(Je pense, donc je suis)という『省察』や『方法序説』の一節はとても有名です。

フランス哲学はデカルト以来、なにより sens(感覚、意味)を重視するものだと言われてきました。

でも、それはドイツにはないものなのでしょうか? フランスだけの特徴とは言えないのではないでしょうか?

直接(=無ー媒介im-médiat)の感覚(sens)を、内なるものと外なるものの一致を求めるということなら、神秘主義が得意なはずです。

そういう意味では、フランスで神秘主義が盛んでもおかしくないと思うのですが、20世紀以降のフランス神秘主義の人といえば、寡聞にしてルネ・ゲノン René Guénonしか知りません。パリには神秘主義専門の本屋がありますし、ダヴィンチ・コードにはいろいろとフランスと秘密結社の話が書いてありますし、実はフランスにも近代心霊主義のようなものが色々とあるのかもしれませんが、あまり聞かないような気がします。

なんといっても、近代の神秘主義というと、イギリスが有名です。ナチスドイツの神秘主義も有名です。それに対して、フランスは?

あるいは、sensとは、そういった神秘の直覚のようなものとは、そもそも異なるものなのでしょうか? ラヴェッソンの『習慣論』などは、たしかに神秘主義とsensを組み合わせたりはしないでしょう。この辺りのことは、わたしはまだ未整理のままです。