文字禍
先日、新宿を徘徊してゐましたら、古本市をやつてゐることがわかりました。場所は京王百貨店です。
わたしはさつそく百貨店にはひり、決死隊の覚悟で、イメルダ夫人の部屋を思はせる膨大な量の靴の山を抜け、たくさんの老貴婦人の波をかき分けて、昇降機でやつと七階まで昇りました。
まづ、ざつとすべてみることにします。会場は大変に広く、とほくが霞んで見えます。あまりの広さにめまひがします。吶喊の声をあげずに猛攻を開始し、三十分くらゐかけて、すべての棚を見ました。一つの棚を数秒で見るのですからくたびれました。
さうして、さんざん見たすゑ、一冊だけ本を買ひました。ヴィンデルバントの『意志の自由』です。大正十四年のさはると手が汚れさうな・・・ではなく、ほんたうに手が汚れる本です。
ヴィンデルバントは『哲学概論』などで有名な新カント学派の哲学者です。戦前には、とても人気がありました。今は人気がありません。新カント派は道徳を主題にしてゐるので、はやらないのでせう。でも、当今倫理学は多少人気復活の兆しもあり、レヴィナスの「倫理」などに対置して検討する人が出てきてもよいと思ひます。
新カント派は「価値」を軸にしてをり、レヴィナスは「価値」で人を見るのは、他者autreを他人autruiに貶めるものと言ふでせうが、無味乾燥な日本の現代社会には、かへつて新カント派風の功利的厳格主義のほうが合ふかもしれません。
ざつと見終はると、わたしは「のらくろ」を探しまはりました。
講談社が二十年程前に、「のらくろ」の単行本を復刻したことがあります。それを集めてゐるのですが、なかなか集まりません。でも、ほしい巻はつひに見つかりませんでした。
さて、ここまでは探しものの時間です。探し物といふのはいつもいらいらさせられるものです。だからこそ、まさに、ここからが古本市の醍醐味です。すなはち、趣味の時間です(先ののらくろも趣味です)。
それは何をするのかといふと、なんのことはない、絵葉書を見ることなのです。
古本市には必ずといふことはありませんが、絵葉書を置いてゐることがあります。今回の古本市にも結構ありました。絵葉書は大正から昭和の初めにかけてのもので、一枚百円から二百円です。昔、友人が旅先から昭和の初めの頃のと思はれる絵葉書に、今の切手を貼つて送つてきてたまげたことがありました。
たいがいは冴えない名所風景の絵葉書ですが、美人の絵葉書もたくさんあります。
振袖で変な姿勢で踊つてゐます。モデルさんは変な姿勢で固まつたまま撮つてもらつたのかと思ふと、をかしな感じがします。集団で踊る絵葉書は、振袖をななめにして、全員固まつて撮らせたものなのでせう。絵葉書で見ると自然ですが、実際には冗談のやうな光景だつたにちがひありません。
昔の美人はみな背が低いです。ちよこちよことしてゐて、着物がとてもよく似合ひます。背が高い人より低い人のはうが和服は似合ふやうに思ひます。でも、顔は今の人とあんまり変はりません。百年前の人と今の人の顔はさして変はりません。
さらに、古本市には紙屑も売つてゐます。石鹸の箱や、ゴールデンバットの空き箱です。
ごみをあさる犬の気分で、さういふものを見ます。
それにしても、古本市に行くと、なんと本といふものはこんなにたくさんあるものなんだと、愕いてしまひます。
そして、あまりこの先も読まれることもなささうな本の実に多いこと。この本の群れは多くは売れ残り、あつちこつち転々とするのでせう。まるで売れない芸者の置屋換へのやうです。
そんななかで美人の絵葉書も、まさに置屋換へのやうにくるくるとまはされて、実に気の毒です。しかし、買ひませんでした。さういふものをもつてかへると、写真の主に縛られることになりさうで、一寸こはいからです。
中島敦が「文字禍」といふ小説で、本に押しつぶされて死ぬ書痴の話を書いてゐますが、本の山を見てゐると、その山に押しつぶされさうな気持ちになりました。
そこで、さうさうに逃げ出しました。八十年さまよつてゐたヴィンデルバントだけ救つたからいいやと思ひました*1。
*1:滞在時間、たつた2時間でかへりました。