九鬼周造

kimikoishi2006-07-31

媚態とは、一元的の自己が自己に對して異性を措定し、自己と異性の間に可能的關係を構成する二元的態度である。さうして「いき」のうちに見られる「なまめかしさ」「つやつぽさ」「色氣」などはすべてこの二元的可能性を基礎とする緊張に外ならない。いはゆる「上品」はこの二元性の缺乏を示してゐる。さうしてこの二元的可能性は媚態の原本的存在規定であつて、異性が完全なる合同を遂げて緊張性を失ふ場合には媚態はおのづから消滅する

これは、九鬼周造の『「いき」の構造』(1930年)の一節です。とても哲学的です。それにしても、よくもここまで上品に言えるものだと感心します。言っていることは、何のことはない、男女の仲のことなのですから。

なんだこれは、読みにくい。わけがわからない。また、自分は忙しいんだ、とおっしゃる方のために、わたしがとても粗雑に要約してみます。

媚態とはこういうものです。つまり、気になっている異性がいると、いままでの完結した自己ではなくなってしまいます。一元的な自己は失われ、自分の中に異性が入り込んできます。

その異性とどうやって近づくか、しかもずいずいと無遠慮に入り込むのではなく、お互いの距離をとりながらも(二元的)、自分の領域と相手の領域をどうやって重ねあって、相愛になることができるものか。そんな緊張の態度の中に生まれるのが、色気や媚態なのです。

これに対して、「上品」はその緊張がなく、ぱたりと閉じたものでしかありません。

さうして、自分と相手の緊張関係が失われて一元化した時(俗に言えば、ねんごろになった時)、「媚態はおのづから消滅する」のです。

九鬼先生は恋愛マニュアルを書こうと思って、『「いき」の構造』を書いたわけではないのですが*1、恋愛を哲学的に解釈するとこうなるわけです(ここまで読まれて、あわてて本屋に駆け込む方がいないとも限らないので念のため。九鬼は恋愛を主題に書いているわけではないので、「『いき』の構造」は異性とどうお近づきになるべきかということを具体的に学べる本ではありません。でも、お読みでない方はどうぞ読んでみて下さい)。

男女の仲というのは不思議です。もちろん、男性が好きな男性にとっては、男男の仲のことでもよいのですが、惹かれあう男女の間には、一種不思議なものがひろがります。

むろん、それは恋愛だけではなく、人間同士の関係にもいえることです。そのなんだか不思議なものをめぐって、お互いがひきつけあい、ある時は反発します。この二つを繰り返して人間はお互いに歩み寄ります(歩み寄らないことのほうが多いのですが)。

動物はもっと簡単で、感覚的に、直覚的に、本能的に、敵か味方かの関係をすぐに読み取って、行動にでますが、人間は感覚的なものを大分失っているので、関係のとり方はもっと複雑になっています。

誰もが人間同士の関係をうまくとりたいと願います。そうなると、魅力的な人間に出会うこと、あるいは魅力的な人間に自らなることが理想である、ということになってきます。

それでは、どうするのか。それは、遅延に耐えることにあるのではないでしょうか。

誰もが自らの鋳型にはめて相手を見るものです。しかし、それは動物の方法とあまり変わらないのではないでしょうか。しかも、ある意味で動物より愚かしい態度だったりするかもしれません。たとえば、ここで言及されている醜い人間たちの態度なんかどうでせう。http://fromdusktildawn.g.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20060730/1154237497

でも、自らの鋳型は所詮自らの縮図でしかありません。そこにはめるのでは、相手は逃げてゆきます。出会いとは、もっといらいらさせられるものであるべきなのではないでしょうか? そして、大事なものであるほど、それに耐えることではないのでしょうか(それは、隷従のことではありません。相手も動揺させなくてはなりませんので)。

無論のこと、それは美化でもありません。美化もある意味、相手を型にはめることです。賛美や美化は完全な距離を保つことで、緊張はそこにありません。

わたしは谷崎潤一郎の小説は好きですが、「女は自分にとつて神であるか、奴隷であるかのどちらかである」という言葉は最悪だと思っています。この言葉には、いろいろ別の解釈もあるでしょうが。

九鬼周造は、その両極端の逸脱から逃れるもの、それが「いき」だと述べたかったのでしょう。それは「遅延」にあります。あせってはいけません。しかし、この頃はなんでもかんでも急ぐ人が多いようです。

文学や思想のような「遅延」を楽しむものが飽きられて、ハウツーものや、お金になるものしか相手にされないようでは、人間もどんどん動物化してしまうようになるでしょう。

ちょっとまてよ。何だよ、インテリが偉いっていうのか? インテリなんか全然魅力ないじゃないか。

そう反問されるかもしれません。

そうです。思想、文学を読めばいいのかというと、そういうことではありません。それは、「遅延」を楽しむものの例としてあげてみただけです*2。人によってはそういうものがぜんぜん役に立たないことも多いでしょう。わたしも役立てているとはとても思いません。

要は、遅延を楽しめる余裕を体得すればよいわけです。ただ、それはハウツーものに頼ることだけはできませんし、お金で簡単に買えるものではありません。偉そうに言うわたしですが、わたしもそれはどこかに売っていないかと、いつも探しまわっています。

九鬼の『「いき」の構造』にはそれについての考へるヒントがあるのかもしれません。でも、九鬼さんは実生活では華やかな男女関係を繰り返しておられたようで、それを思うと、「いき」はうまくいかなかったのかもしれません。おっと、これは「野暮」なことを申しました・・・

*1:九鬼が企てた宏遠なる目的については、また書くこともあろうと思いますが、今日はやめておきます

*2:三色ボールペンで読むとか、声に出して読むなんとかという本で一時期はやった人は(名を忘れました)、古典を読むことが人間の育成には必要不可欠だとあちこちで言っていましたが、わたしはそれには懐疑的です。というのも、つまらない古典教養を身につけた人間に限って、因循姑息で、ものすごく性格が悪かったりする例をうんざりするほどたくさん見てきましたから。それに、硬い本を読まない人間はくだらないと言っている人間など信用するに足りません。その人は単に硬い本を読むことしか特技がないだけです。頭はいいが人には冷たい人間より、やさしく強い人のほうがわたしは好きです。古典はかならずしもそんなことを教えてくれるとは限りません。ただし、本好きのわたしとしては、なんのやくにもたたない古典をお勧めしたい気持ちは強いのですが。それは、「役に立たない」からいいのです。