小林秀雄

kimikoishi2006-07-27

少し前に、「昭和イデオロギー」といった感じの題の本を必要があって読みましたが、著者が日本文学の人でしたので、話題は思想ではなく文学が中心でした。

そのなかに、小林秀雄の「社会化した私」という言葉についての記述がありました。

社会化した私でなくて、社会化された私でしたか。それは、大正末から昭和の初めに私小説論争があって、その時の小林秀雄の言葉です。

私小説論争は、たしかこんな論争でした。

一方の主張は、小説の役割は、大衆に娯楽を提供するものである。ロマンでなくてはならぬというもので(本格小説)、
その反対の主張は、作られた贋物のロマンなんかどうでもよく、作者の主情を軸に書くべきだ。心境を写すべきだ。そっちのほうが本物の小説だ(心境小説、私小説)、というものでした。この双方が激しく論戦を交わしました。

中村武羅夫が前者で、久米正雄が後者を支持したのだと思います。

同時期の芥川龍之介谷崎潤一郎の「筋のない話」論争というのも、私小説論争と関係があったのかもしれません。芥川は心境小説を支持して、谷崎は本格小説を支持しました。論争は平行線をたどり、芥川の自殺によって中断しました。

小林秀雄私小説論争で、その両方の立場を止揚して「社会化された私」という概念を提唱したのでした。

主情によって縁取られた私なんてものだけでは駄目で、かといって、作者という主体の存在を要しない贋物構築ではないものでなくてはならない。すなわち、作者主体は社会に定位した私をもってすべきである。と、そんなことを言っていました。

わたしが読んだ昭和イデオロギーなんとかという本には、小林のこの「社会化された私」とは、超越的な抽象的な主体のことであり、それがあまりにも文壇の論争では欠けていることを、小林は批判したのだと言います。

自由な主体、自発的な主体は、超越との関係ではじめて生まれます(だからこそ、フッサールは超越論的還元をするわけです)。

ところが、日本の文壇では、いわば文学の神様のようなものを内在的な超越としてあがめて、それをめぐって話をするものですから、主体がどうなのかなどとお話をしたところで、文壇内での揉め事に終わってしまうわけです。

小林が求めたのは、いわばカントの道徳論、ひいては国家論が提示するような主体であったのでしょう。もちろん、文壇に内在しうるような超越とは関係しないものです。

しかし、小林の所論には、趣味判断のようなものを道徳論、国家論から排除しようという動きもあるように思います。もっとも、小林はのちに日本の美の趣味判断を積極的に語ることになりますが、それはこの時の趣味判断を欠いた道徳論、国家論への補足の意味があったのかもしれません。

最近、小林秀雄に関する新刊本も読みましたが、今述べたような小林の主体論と国家論の関係については、解釈をほとんど放棄している本でした。

もちろん、小林の美学と国家イデオロギーの関係を声高に批判したところで意味はありません。その機能の仕方を問題にするのはまだ生産的ですが。かといって、小林の美学をひたすら称揚するだけなのも愚かしい話です。小林には遺憾ながら信者が多いので、こういった信者が論じると、小林世界の中をぐるぐる回るだけに終始することになります。

最近の小林論は、小林の美学と国家といったきわどいところは避けて通るか、イデオロギーへの加担はたしかにあるが、著者は判断は留保したいとするだけの腰砕けのものが散見されます。なんだかどちらも生産的ではありません。

わたしとしては、小林の考えた主体について考えてみるほうがよいように思います。そうなると、それは小林の諸作品だけでは論じることはできないでしょう。

先にあげた昭和イデオロギーの本は、興味深いテーマを示してくれはしましたが、結局示唆以上のものはその本にはありませんでした。それは、著者の興味範囲が主体がどうのということではなく、政治的な批判にばかり関心が集中していることに起因するものだと思いました。

それでは、結局イデオロギーなどといった漠然としたものを明かすことはできないでしょう。しかも、イデオロギーなんて、そもそも初めから負のイメージしか伴わない言葉なのです。結論も見えようというものではありませんか。

明治二十年代に国家をまとめるためのイデオロギーが出来上がった。そのイデオロギーは文学などもろもろのメディアを通して、国民と共に身体的、性的などの複層的なレベルで共有されるに至った。という話を以前よく耳にしましたが、結果的にそういった論旨は、文学だの思想だのの研究を究めてつまらないものにしてしまったように思います。

初めは新奇な説だったのでしょうが、だれもかれもがイデオロギーという負のイメージの検索に走り出しては、頽廃に帰着するのは火を見るよりも明らかなことでしょう。