夜明けの国

kimikoishi2006-07-23

「夜明けの国」という映画があります。これは、1966年の中国の技術革新を取材した日本の映画で、1967年に公開されました。岩波映画が撮ったものです*1

1966年の中国といえば、無産者文化大革命が起こった年です。文化大革命は農業立国と共に技術立国を目指していました。もっとも、それは名目で、実際は「大躍進」計画の大失敗で信用を失いつつあった毛澤東と、江青を始めとする四人幇(四人組)の権力再奪取のクーデターでしかなかったのですが。

映画はごく単純に、かつ暴力的に要約するとこんな感じでした。農民も技術を覚えて、農業生産を効率化します。工場労働者は新技術を学習して、さらに効率化を図ります。技術の革新と、農業の近代化を果たし、人民一人一人が国のために邁進する新しい中国の姿がそこにあります。若い紅衛兵には希望があります。

そんな映画を岩波書店岩波映画が作っていたのですから、なんとも複雑な気持ちになります(しかも、文化大革命は何百万人(何千万人とも)もの人が殺されました。農業立国革命を目指したポル・ポトに勝るとも劣らないひどい革命だったようです。これを肯定的に取り上げた岩波の責任は、いつものことですが、結局ないということになるのでしょうか)。

と言うのも、技術の革新は、かの大東亜戦争の時の標語だったのですから。もちろん、国のために人民が尽くすという標語もそうです。

結局、1940年代と1960年代は思想的には大して変わっていなかったのでしょう。ハイデガーは戦後、技術批判をしましたが*2、日本では技術に対する反省はあまりなかったようです。

学生紛争中の学生運動家が、いかにマルクス主義やトロッキズムなどに依拠した理論闘争に明け暮れていたとしても、それはやはり1940年代から連続するものでしかなかったのではないでしょうか。もちろん、そこには断絶と創造もあったのかもしれません。でも、今にそれが続いていないことからも、それはほとんどなかったと見なさざるを得ません*3

そもそも、効率化が至上であった1960年代という時代の若者たちが、その後築き上げた日本はどうなっていったでしょうか。

効率化の美名が何を豊かにしたのでしょうか。わたしは1960年代より今のほうが豊かだと言えるのは、夏の冷房くらいではないかと思っています。

ああ、それだけではありません。効率化至上主義はばかばかしいことだといくらかの人は気づくようになりました。なにしろ、効率化の結果、得るところもあるでしょうが、悪弊はそれ以上に大きいのです。世襲社長の馬鹿馬鹿しい効率化が生んだ欠陥品による殺人だってその一つでしょう。しかし、その効率化に抵抗する術はなさそうです。

また、四十年も待たなくてはならないのでしょうか。

*1:先日、上映会がありました。その上映会での学生の発言が愚かしかったとあちこちに書いてありましたが、それならば、よい質問をあなたがしなさいということになります。質問相手を無視して勝手にしゃべることはいくらでもできますが(さかんに革命世代がそういうことをしていましたが)、話を引き出す質問はとても難しいものです。模範を見せることなく痛罵するのみでは、それを見た若者によい影響はまったくありません。ですから、そういうことは書かない方がよいと思います。インターネットの何割かは悪口と自慢と不満と嫉妬の掃き溜めかもしれません。ですが、大人は掃き溜めに参加するのはやめようではないですか、というのがわたしの考えです。強い立場にある人に対する批判は、いくらでもすべきだとは思いますが。・・・

*2:ハンナ・アーレントが引き継いでいます。バタイユもそういえば戦後に技術批判をしていました。日本は戦後も今も、技術しか誇るものがなかったので、それをあえて批判することはしなかったのでしょう。

*3:学生運動の世代のおじさんで、若者の批判ばかりして喜ぶ人がいますが、今の日本は、好きなことの言える時代ではなくなってしまったと思います(右傾化などというつまらないことではありません。その左派・右派という単純なカテゴリーによってしか判断のできない頭の鈍いおじさんが若者は駄目だと一蹴する資格はないと思います)。それはそのおじさんたちの責任であると思います。