マグダラのマリア

kimikoishi2006-06-11

ヤコブス・デラ・ウォラギネ『黄金伝説』2、前田敬作・山口裕訳、平凡社

「主は、マリアをとくに親しい友とされ、主をもてなす女主人、布教の旅に出たときの女執事とされた。主は、いつでも大きな愛をもって彼女を弁護された。(中略)彼女が泣くのを見ると、主も泣かれた」

「主が恵みをお垂れになったときまっさきに悔いあらためたのも、最良のものをえらんだのも、主の足もとにすわって、主の言葉に耳をかたむけ、主の頭に香油をそそいだのも、マグダレナであった。彼女はまた、主が亡くなられたとき十字架のそばに立っていたし、ご遺体にぬる香料と香油の用意もした。弟子たちが墓を立ち去っても、墓を去らなかった。また、ご復活のキリストは、まっさきに彼女に姿をあらわされ、彼女を使徒たちのもとにつかわす女使徒とされたのである」

マグダラのマリアは、神に対してあるべき人間の姿をあらわした存在と言えるのではないでしょうか。小さきもの、やさしきものとなること、それは強さをも必要とします。ただ、イエスの死を悲しむのではなく、その意志をついで神と人とを結ぶ役割を果たし続けます。

しかし、神と人を結ぶ愛と、人と人との間の愛を同じものとすることはできないように思います。人の愛にはエロースが含まれます。それは、ただ肯定する愛ではなく、否定の愛でもあります。否定の愛は神と人を結ぶ愛にはなりえません。否定の愛を肯定の愛に開くことが必要となるのでしょう。

『黄金伝説』に記されているイエスの死後のマリアの活動は、マグダラのマリアのイエスへの愛が開かれたものとなるためにあったのかもしれません。たとえば、アビラの聖テレジアにしても、その真価は見神(extase)にだけあるのではないのです。その後の活動が重要なのです。

「もうここからあとは、魂にとって満ち溢れてくる生があるだけだと言おう。あるものはただ、尋常ならざるエランである。魂は抗うに術もない力に押され、魂はこのうえもなく広大な企図のうちへ投げ込まれる」(アンリ・ベルクソン『道徳と宗教の二源泉』森口美都男訳)

ベルクソンは『道徳と宗教の二源泉』(1932年)で、神秘家の開かれた魂について語っていますが、やはり開かれることそのものよりも、それを梃子にして、かれらが開いてゆくものを重視しています。