ビスケット
わたしはビスケットが大好きです。ほんたうはチョコレートケーキが最も好きなのですが、これは値段が少々張ります。
しかも、ケーキ屋さんに買ひにゆかなくてはなりませんし（あひにく、近所に一軒もないのです）、満足するほど大きいケーキはなかなか食べられませんし、さうかといつて満足するほど食べたら肥えてしまひます。
ビスケットはいろいろありますが、少々値の張るものほどおいしいやうです。缶入りのごちやごちやはひつたのも好みですが、手のひらくらゐの大きな円盤型のビスケットが一番好きです。なぜかといふと、食べ甲斐があるからです。
さういへば、子供の頃、こんな英文を読んだことがありました。イギリスのとある駅で、紳士が汽車を待つてゐます。汽車はなかなか来ないので、待合室で汽車を待つことにしました。待合室にはお茶と菓子を売る店があり、紳士は紅茶とチョコレートビスケットを求めました。
空いている席がないので、紳士はすぐ近くのテーブルに相席をしました。そこには、先客の男が座つてゐて、新聞を読んでゐます。紳士も新聞を読み始めます。紅茶とチョコレートビスケットを楽しみながら。
しかし、紳士ははつと驚きます。なんと目の前の先客の男が、自分のビスケットをさりげなくつまんで食べてゐるではありませんか！
続きは忘れました。どなたかご存知でせうか？
わたしがこの一文を初めて読んで気になつたのは、じつは他人にビスケットを食はれてどうなつたかといふ顛末ではありません。
わたしが魂消たのは、紳士がチョコレートビスケットなぞといふ口の中にくどさが広がるやうな甘いものを、駅で堂々とたべてゐることでした。
日本の中年男でお菓子を楽しみにしてゐるひとは、あまりゐないやうに思ひます。今はさうでもないですが、昔はほんたうにゐませんでした。実際、会社や学校でむしやむしやと菓子を食ひちらかしてゐるのは、たいていが男性ではなく女性です。不二家に一人で出入りしてケーキをむさぼる中年男性は珍しいでせう。
しかし、西洋では中年男性や老年男性がお菓子を楽しむのは普通のことで、昼食後なぞに、くどいくどいあまいあまいお菓子をおいしさうにほほばつてをられます。菓子屋でチョコレートを買つてかへる男性も少なくありません。日本では、バレンタインデーの日くらゐでせう（あれは、男性が買ふのではなかつたんでしたか）。
日本では、ある年齢以上の男が甘い甘いお菓子をうれしがるのは、かつこわるいことだといふことになつてゐるのではないでせうか。
携帯型テレビゲームをちよこちよこと電車の中でいぢつてゐるをぢさんのはうが格好悪いと思ふのですが、食後のケーキを楽しむをぢさんのはうが、かつこわるいことになつてゐるのではないのでせうか。だから、あまりゐないのでせうか？
それはさうと、わたしは先日大きなビスケットをもらひました。写真のがさうです。
七枚くらゐはひつてゐたので、さつそく三日に分けて大事に食べる計画を立てました。実際は一日でなくなつてしまつたのですが・・・
そして、このビスケットはステラおばさんのビスケットです。
わたしはじつはステラおばさんのビスケットは苦手でした。さかのぼること十年以上前の話になりますが、初めてステラおばさんのビスケットなるものをもらつたことがあります。両親がどこかから入手したお土産でしたでせうか。
わたしは大喜びで包みを開けてみました。巨大な円盤型のビスケットがはひつてゐます。変はつた色をしてゐます。見たこともないビスケットです。わたしは舌なめづりして、一枚かぢつてみました。
う？
わたしは目を白黒させました。それは、わたしの苦手な塩饅頭の味がしました。
なにかの間違ひかと思ひ、またかぢつてみました。
うう・・・
なんとも言へぬ苦みが口のなかに広がります。塩饅頭のはうがまだましではないかと思ひました。にがよもぎといふのはこれではないかと思ひました。
わたしはその先たべつづけるのを断念し、かぢつたところをきれいに整形し、他の犠牲者に供することにしました。そして、イギリス人といふのは、なんとも変な味の菓子を喜ぶものだと決めつけて、ステラおばさんとの不幸な出会ひは終はりました。
しかし、十数年後にたべたステラおばさんのビスケットは、バターの香りも馥郁とし、甘さも上品で、大きな満足を与へてくれました*1。あの時に食べた塩饅頭のやうなビスケットはいつたい何だつたのでせう？
ステラおばさんがいつの間にか代替はりしたのでせうか？ 前のおばさんは大正生まれだつたので味が古く、今のおばさんは昭和生まれなので、味がナウくなつたのかもしれません*2。
