納豆

kimikoishi2006-05-19

とつても日本びいきのイギリス人がゐました。日本に留学して十年近い人です。

このイギリス人と朝食を共にする機会がありました。

食卓についてみると、ごはん、みそしる、とうふ、やいたさかな、たくあん、なつとう、のりと、完全なる和食でした。

わたしはこのうち「納豆」が苦手です。苦手どころか、わたしの敵です。

イギリス人はすでに席についてをり、わたしを見ると、「おはやう」と日本語で云ひまして、そしてずるずると音を立てて味噌汁をすすりました(西洋人は麺類でも飲み物でも、ずるずると吸ひ込むやうな食べ方はたいていしません。スパゲテイもラーメンのやうにずるずると音を立てて食べることはしないし、やつたことがないのでできないのです)。

日本びいきを体で示す彼に敬意を表しつつ、わたしはごくしづかに味噌汁を飲みました。

「ウマイネエ。やはり味噌汁は朝に限る」

イギリス人が感歎の声をあげました。わたしは黙つてゐました。

ずずうう、とイギリス人は音を立ててお茶を飲みます。お茶はきはめて薄い緑茶でした。

わたしはさかなの干物を骨ごと頭からがりがりと食べ始めました。わたしはつねに焼き魚はまるごとたべます。さんまなどはさすがに無理ですから、頭は猫にやりますが、あじなんかは頭からしつぽまで皿から完全に姿を消して見せます。

イギリス人は焼き魚を上手にたべるのは苦手らしく、かなり適当につついて食べてゐました。イギリス人なのに、箸をもてるだけすごいのですから、これは仕方ありません。日本人でも、魚があまり好きではない人は適当に食べて散らかすものです。

イギリス人はバリバリとたくあんをかぢつてゐます。こころなしかまづさうな顔をしましたが、「うーん。いい香りだ」とにくいことを云ひます。かれは日本食をとても愛してゐるやうです。わたしも黄色い黄色いさくらんぼ・・・ではなくたくあんをがりがりとたべました。

しかし、かれは納豆には手をつけません。わたしもですが。

「納豆は嫌ひ?」

とわたしは聞きました。イギリス人は大きくかぶりを振りまして、

「イヤ、大好きだ。しかし、納豆は朝は食べないんだ」

と言ひます。たぶん、朝だけでなく、昼も夜も食べないんだらうなあと思ひましたが、黙つてゐました。

ずずずずずーとイギリス人が音を立てて味噌汁を飲みます。西洋人は、日本食の特徴の一つである大豆から拵へたもの(味噌、醤油、豆腐など)がたいてい苦手らしいのですが、彼は平気のやうです。さういへば、一説によると、日本人は醤油くさいのださうです。ちやうど、日本人が西洋人をバターくさいといふやうに。

わたしは豆腐に醤油をかけずにたべました。わたしは薄い味が好きなのです。イギリス人は、どぼぼぼぼと醤油を豆腐にかけます。わたしは憎い納豆をちらりと見ました。イギリス人君が好きなら上げようと思つてゐたのに。

納豆には、からしとだしの袋がついてゐました。

「昔は、これはついてゐなかつたんだよ」

わたしは納豆についてゐた「だし」の袋をつまみあげて云ひました。イギリス人は「へ?」といふ顔をしました。

「このだしの袋は、昔はなかつたんだよ。だしなしにどうやつて食べるかといふと、醤油をかけて混ぜてたべてゐたんだよ。だしなんぞをかけるのは江戸つ子にしてみれば邪道だつたんだよ」

「ジャドウ?」

「邪道」はたしかに難しい言葉です。フランス人ならJ'adore(それ好物だ)と聞き取つたかもしれません。「邪道」を説明するのに、これを「異端」と言ひかへると、余計な誤解を生むことになりますので、「粋でないと言ふことだよ」とわたしは云ひました。イギリス人は「アア」と納得したやうです。一寸違ふのですが、まあいいでせう。

しかし、納豆にだしの袋がつくやうになつたのは、いつからなのでせう。納豆業界が関東だけでなく、西の地域でも納豆を売りたいと思ひ、それで関西人と中国地方の人が好きな「だし」をつけて売り出したんだと聞いたことがあります。いつしか、それが東京でも定着したとか。

昔、東京の人は納豆を見ると、かならず醤油をどぼぼぼぼとかけて、ぐちやぐちやと混ぜて、ごはんにどろどろとかけて、がつがつと食らふのがならはしでした。わたしはその強烈な臭ひと粘り気に圧倒されて、一切口にすることはありませんでした。

わたしの友人が江戸つ子で、食事の時はいつも納豆を食べるのでした。彼と食事をすると、納豆の臭ひがそこら一面に充満して、納豆嫌ひのわたしにはたまりません。或る時なんぞは、あまつさへその納豆の臭気に引き寄せられて、蝿が二匹ぶんぶんとその人の周囲をめぐりさへしたではありませんか。

今も少なからずさうですが、東京の人は東京以外の土地が日本には存在しないものと決めてゐるところがありますので、納豆が食べられないわたしを、蛮人かなにかのやうに蔑んだ目で見たものでした。

わたしはあまり悔しいので、対抗して、その人の目の前で青黴チーズを食べてみせたことがあります。昔はこれが苦手な人が多かつたものでしたから、驚きと賛嘆の目で見られました。でも、やはり蛮人だと思つたのかもしれません。

それはともかく、最近わたしは納豆を六日間連続でたべてゐます。快挙です。人間なんでも挑戦が必要だと言ひ聞かせて、たべてゐるのです。二十年以上食べたことがないものをたべてゐるのです(二十年前我慢して一回だけ食べたことがあります)。これは一人の人間にとつては小さな一歩だが、人類にとつては偉大な一歩です(That’s one small step for a man, one giant leave mankind)。

どうかみなさんほめてやつてください。