すてきな王子さま

フランス・ギャル

http://www.youtube.com/watch?v=SNql7lj3RHI&search=Un%20prince

歌つてゐるのはFrance Gallです。「Un Prince Charmant」といふ唄で、日本語です(「すてきな王子様」)。原詩の一部をあげておきましたが*1フランス・ギャルが歌つてゐる日本語訳は原詩とずゐぶん違ひます(原詩のエロチックな感じは払拭されてゐます)。1960年代後半から70年代初頭にかけての録音でせう。

(原詩)
Un prince charmant sur un cheval blanc 白い馬に乗つた素敵な王子さま
Galopait dans mes rêves d'enfant 小さなわたしの夢に颯爽とかけてきたの
Dès que je dormais je le retrouvais ねむるとすぐにまた会ふの
Et alors il m'emmenait そしてわたしをつれていつたの


Au fond des forêts il avait un palais 森の奥にかれのお城があつたの
Où déjà sa mère m'attendais かれのお母さんが先からわたしを待つてたわ
Vite ton habit et vite on me coiffait すぐにあなたの衣装をそろへ、すぐにわたしの髪を梳つて
À minuit, il m'épousait 真夜中にわたしたちは結婚したの


Tu sais il ne faut pas m'en vouloir あなたわたしにのぞんぢやいけないのしつてるでせう*2
J'avais à peine 15 ans わたしはたつた十五歳なのよ
Non tu sais il ne faut pas m'en vouloir ねえあなたわたしにのぞんぢやいけないのしつてるでせう
Ce n'était qu'un prince charmant すてきな王子さまだものね


Un prince charmant sur son cheval blanc 白い馬に乗つた素敵な王子さま
Galopait dans mes rêves d'enfant 小さなわたしの夢に颯爽とかけてきたの
S'il était blessé je le caressais かれが怪我していたらわたしはなでてあげた
Et mon prince guérissait そしたらわたしの王子さまはすつかり元気になつたわ


フランス・ギャルはおそらく一言も日本語は知らないと思ひます。だから、変な発音の日本語ですが、これがなかなか悪くないのです。逆に、まるでフランス語ができない日本人が歌つたら、どんな感じに聞こえるのでせう?

日本語はかなり貧弱な音域しかもたないと聞いたことがありますが、文部省がたくらんでゐるやうに、英語を小学生に学ばせてそれが直るといふものでもないでせう。

それにしても、小唄や端唄や、それを現代風にした演歌のやうなのんびりした音楽ばかり好んできた日本人ですが(それもつい最近まで)、このごろの音楽はあまりさういふのはありませんね。近年、いはゆる流行歌が消滅しつつあることと関係があるやうにも思ひます。

日本語は英語、フランス語や中国語と比べて、同じ長さの音に入れられる単語数が極めて少ないやうです。たとへば、他の言語が10語入れられるところに、日本語だとその半分だつたりします。したがつて、他の言語の歌を正確に日本語訳して歌ふことは、ほとんど不可能でせう。

モルドバの流行歌、恋のマイヤヒーなんとかが去年はやりました。その歌詞(ルーマニア語ださうで、なかなか味はひぶかいよい歌詞です。菩提樹の下で見た君の目を忘れない、とかそんな感じでしたか)をそのまま訳さずに、音の印象で適当に妙な歌詞をつけて話題になりました。飲ま飲までしたか。

さういふのもあつてもよいと思ひはしますが、わたしはそれはすこし芸がないやうに思ひます。訳と歌を合はせる難しさとの格闘をはじめから放棄したもので、日本語の歌の衰退を反映したものかしらんと思ひました。まあ、わたしがそんなことをいつても、何にもならないのですが、それはさうと、歌を訳す難しさの例です。

那南風吹來清凉
那夜鶯啼聲凄愴
月下的花兒都入夢
只有那夜來香
吐露出芬芳
(『夜來香』)

「那南風吹来清涼那夜鶯啼聲凄愴」はそのまま訳すと、「あの南風がすがしく吹いてくるよ。夜鶯が心をしめつけるやうな声でなくよ」なのですが、これが日本語訳では「あはれ春風に」だけになるのです(李香蘭が中国語でも日本語でも歌つてゐます。)。ナナフォンチュイライチンリャンと中国人が歌ふあひだに、アーハーレーハールーカーゼーニーとしか言へないのです。

Parlez-moi d' amour
Redites-moi des choses tendres
Votre beau discours
Mon cœur n' est pas las de l' entendre
Pourvu que toujours
Vous répétiez ces mots suprêmes
Je vous aime
(『Parlez-moi d'amour』*3

冒頭の「Parlez-moi d' amour, Redites-moi des choses tendres」をそのまま訳せば「私に愛を語つてくださいな やさしい言葉をまたかけてくださつて」ですが、日本語訳だと「聞かせてよ愛の言葉を」だけです。前半分しか訳してゐないのです。

パルレモワダムールルディットゥモワデショズタンドゥルとフランス人が歌ふあひだに、キーカーセーテーヨーアイノコートーバーヲーとしか言へないのです。おお*4


それなら、言葉を多くするために早口で言へばいいかといふと、さうでもないでせう。もともと、短い音に意味を多くこめることができない言語なのです。だから、日本の歌はとにかく含みを持たせるやうな歌詞をつけるしかないわけです。それがかへつて想像力を喚起させるやうな詩情たつぷりの歌を生んでもきたわけです。

その手法にずつと慣れてきたのですから、外国直輸入のやうな、やたらに早いテンポの歌に詞をつける時には、どうしたものか、その伝統がほとんどないわけですから、困つてしまふわけです。

そこで、今の歌は詞のはうは捨ててしまつたのではないでせうか。

わたしはあまりいまどきの歌を知りませんから、偉さうなことはいへないのですが、広い年齢層の人々に愛される、せめて3年もちこたへられるやうな歌がほとんどなくなつたことはたしかでせう。

中年は早口についてゆけないでせうし、詞がよくなければのつてこない若者もゐるでせう。リズムだけでは一部の人しか捉へられず、それを避けるには繰り返しのおなじみリズムを多用するしかありません。

しかし、21世紀は文化にとつては多難の世紀でせう。おそらく文化と名指されるべきものは過去のものでしかなくなるでせう。なんといつても、20世紀の人ががんばりすぎて(良い意味でも悪い意味でも)、次の世代は困つてゐるのです。

さうはいつても、それは時代の運でもあり、現在の人が怠け者だといふわけではないでせう。高齢者たちが若い人は頑張りが足りないなどと言ひますが、かつての未開拓の幸福な時代はもうなくなり、今は明らかに状況が悪くなつてゐるのです。そして、それは旧世代のつけでもあるのです。

今の文化の世界は実に細かく分化してしまひ、スケールが小さくなりました。そして、その細かい世界の中で親分が威張り散らして、親分同士がお互ひののしりあつて、つぶしあつてゐるやうな悲惨な状況が散見されます。この状況をこしらへたのは旧世代なのです。

のまのまの歌詞は、既成の歌詞の作り方に対する、ある種の抵抗と言へるのかもしれませんが、ナンセンス歌謡はただそれだけの一過性のものでせう。いづれにせよ、外来文化に頼つて、それに合はせるといふ従来のやり方がうまくゆかなくなつてゐるのはたしかだと思ひます。それがうまくいつてゐた旧世代に、文句を言はれる筋合ひはないと思ひます*5

*1:http://www.paroles.net/chansons/23308.htm

*2:素直に訳せば、結婚したいなんて駄目つてわかつてるでせう、ですが

*3:リュシエンヌ・ボワイエの歌が聴けます。http://www.geocities.jp/credenza05/phonograph/sp1jp.html

*4:昭和のはじめに、イヴォンヌなんとかさんといふ混血の方が日本語でレコードに吹き込んでゐました。

*5:わたしが旧世代か新世代か、どちらに属するかはわかりませんが