L’amour et la mort

kimikoishi2006-03-25

この頃、病死と愛をテーマにしたテレビドラマがたてつづいてありましたが、わたしはそれはたいそう悪趣味だと思ひまして見ませんでした。

なぜかといふと、それは健康な人間は楽しめるのかもしれませんが、病人にはあまりよいドラマではないからです(わたしは病人ではありませんが)。

極限状態である病気や災害といつた場面では、人間の愛憎がはつきりあらはれることが多いでせう。愛はたしかに極限の場面を通して、はじめてあらはれるものかもしれません。

ハンナ・アーレントは愛は世界の外にあらはれると言ひました(『思索日記』)。死も世界の外にあるものです(ウラジミール・ジャンケレヴィッチ『死』、『死について』)。だからこそ、病気が愛のドラマによく登場するのでせう。

しかし、入院して病気と格闘なさつてゐる病人が、テレビを見てゐることを忘れないで欲しいのです。しかも、その方はたつた一人かもしれません。

重い病気はただ治療を漫然と受けてなほるものではありません。治るものと信じてゐることが重要です。信じるからこそ、治るのです(ここで言ふのは、医療を完全に否定する精神論のみのあやしげな治療のことではありません)。生存率とか難病とかそんなことは関係ありません。信念が重要なのです。ところが、病気で死ぬドラマは、その治るものと信じてゐる信念をゆらがせるものです。大変な悪影響です。

さうです、さういふ縁起の悪いものは見なければ良いのです。テレビは健康な人間だけが見てゐればよいのです。しかし、ほんたうにそれでよいのでせうか?

少なくとも、これだけは言へるでせう。病死そのものだけに焦点を当てて、無理に愛のお涙物語を仕立てるのは、あまりにも安易ではないでせうか。

そこで、何を言ひたいのか? おそらく、この手のドラマにさういふものはなくて、ただその場で忘れ去る程度の感動を、安閑と生きてゐるわたしたちから無理に引き起こしたいだけのやうに思ひます。そこに、病人を利用するのは、あまりよい趣味でないやうに思ひます。病人に裨益するものがなにか一つでもあるのでせうか?

もつと人々に勇気を与へる物語を、力強く一歩を踏み出す力を与へる物語を、テレビドラマを作る人がこしらへてくれることを期待してゐます。それは、強い者が弱い者をふみしだいてゆくものであつてはならないのです。