コロの思ひ出
わたしとコロが出会つたのは、1980年のよく晴れた日の午後でした。
わたしはその日、釣り堀に連れていつてもらつたのです。コロとはそこで偶然出会ひました。
釣り堀といつても、そこはトタン屋根のプレハブ小屋の屋内型の小さな釣り堀で、小屋の中に大きな「いけす」があり、そこに一尺ばかりの真鯉(真鯉とは真つ黒の鯉のことで、色のついた鮮やかな鯉は錦鯉と云ひます)がたくさん放たれてゐました。
普通は釣り堀といふものは、屋外にあるもので、室内の釣り堀は当今はそれほどたくさんはないと思ひます。釣りは野外でのんびり糸をたれて、のどかな時間を楽しむのが醍醐味ですから、屋内では少々感興がそがれるものです。
さて、わたしのいつた釣り堀ですが、釣り人はいくらかのお金を払ひまして(三十分五百円位だつたでせうか)、釣り糸と針のついた二尺ばかりの短い釣竿と、団子状のえさを貰ひ、いけすに糸をたれるのです。
鯉はうようよしてゐるので、とつても簡単に釣れさうなのですが、案外釣れないのです。どうやらえさを腹一杯食はしてもらつてゐると見えます。釣れた鯉は一匹までもらつてかへれます。
釣れなくても、頼めば鯉を一匹呉れます。だから、三十分五百円もしたのでせう。当時は今より少し物価が安いのですから、高いなあと思つたものです。
わたしは釣りがとても好きでしたが、ひどく下手だつたうへに、鯉は満腹と来てゐますから、全然釣れませんでした。
たちまちのうへに、三十分はすぎてしまひました。しかたなく、わたしは釣り堀のをぢさんに頼んで一匹の鯉をすくつてもらひ、袋に水とともにいれてもらつて、一緒に家にかへりました。
家にかへると、わたしはプラスチック製の行李をもらつて、そこで鯉を飼ふことに決めました。そこはアパートでしたので、当然池はありません。でも、一尺の鯉となると、水槽で飼へる大きさではありません(長さ90cm、180cmの水槽はありましたが、かなりの値段でしたので買へませんでした。なによりそんな大きな水槽を置く場所もありませんでした)。行李は100cmはあつたでせうか、一尺もある鯉でも、そこそこ広く見えました。
わたしはベランダに行李を置いて、水を入れて、鯉を放ちました。
鯉は見慣れない環境におびえたのか、すつと底のはうに沈むと、しばらくじつとしてゐました。
しかし、しばらくしてから見にゆくと、元気よく泳いでゐるではありませんか!
わたしはとてもうれしくなりました。
かれにはコロといふ名前をつけました。
コロはなかなか元気いつぱいで、鯉のえさ(スイミーといふ錦鯉専用のえさで、当時、よく食べるスイミー、大好きなスイミーといふコマーシャルがありました)をばくばくと食べました。わたしはそんなコロをあきずにながめてゐました。
日曜の昼下がりなぞ、コロをながめながら、そのまま寝入つたりして、コロと一緒に存分に午睡をたのしみました。
わたしは今と違つて、とても病気がちで、熱ばかり出してゐました。そんな時も、コロをながめてゐました。コロはそれほど動きまはりませんでしたが、ときをりすいすいと泳ぎます。わたしはコロのやうに早く元気にならうとおもつたものです。
コロはざばんと水面上に躍り上がることもありました。鯉は元気がいいものですから、たいていこれをやります。ざばんと音を立てて、空に躍り上がると、ぼちやんとまた水に落ちます。
困つたのは、ときをり水面上に躍り上がつたすゑに、行李の外に落ちてしまひ、ばたばたと土だらけになつてもがいてゐることが、しばしばあつたことです。
はつと気づいて行李を見ると、そこはがらんとして、水だけがあり、肝心のコロは苦しさうに、口をぱくぱくとさせながら、土まみれでベランダにころがつてゐるのです。
コロだけにコロがつてゐるなどといふ駄洒落を思ひつく余裕もなく、わたしはあわてて駆け寄り、コロを行李の水に放ちました。
コロはぽかんと水面によこたはり、わたしは気が気ではありませんでしたが、しばらくすると何事もなかつたかのやうに、水の底に沈んで元気を取り戻してゐるのでした。
不思議なのは、わたしが留守の時は、コロはおとなしく行李の中にをさまつてゐることでした。わたしがゐない時は、空にをどつたりはしないのでせう。そして、コロが行李の外に落ちると、わたしはなぜかすぐに気づくのです。そこで、あわてて駆け寄ります。
コロは何度も危険な目に会ひながらも、それでも毎日、ざばんざばんと空に躍り上がつてゐるのでした。今でも思ひだしますが、月の明るい夜なぞにコロの跳ねる音を聞くのは、なかなか風流なものでした。
しかし、そんなコロとの生活が一年もたつたころでせうか。コロとの別れが近づいてゐようとは想像もしなかつたのですが、つひに別れが訪れたのです。
わたしは引越しをしなければならなくなつたのです。それも、うんと遠くへ。
わたしはコロと別れねばなりませんでした。
考へに考へたすゑ、わたしは近くのどこかの学校の池にはなつことにしました。そこは今にして思へば、自動車教習所だつたやうでした。
わたしはコロを連れて、そこへゆきました。ちやうど日暮れでした。
自動車教習所は誰もゐませんでした。
がらんとした広い庭に、小さな池がありました。ここなら、誰かがえさを呉れるだらう。わたしはさう思ひました。
そして、コロを小さな池ですが、今までに比べたら、はるかに広い池にはなちました。
コロはいきなりどぼんと池の中に落とされて、面食らつたやうでした。そこで、すつと底のはうに沈むと、しばらくじつとしてゐました。
さうです。わたしの家に来た時と同じやうに、すつと底のはうに沈むと、しばらくじつとしてゐたのです。
コロは口をぱくぱくさせながら、新しい家を観察してゐるやうでした。
わたしのはうをじつと見てゐるやうな気もしました。
夕暮れはしだいに深まり、あたりは暗くなつてきます。
コロはじつとしてゐました。わたしもじつとしてゐます。
ときをり、風が吹きます。さざ波が立ち、夕日に照らされた水面はきらきらと輝きました。
闇がしだいに濃くなつてゆきます。
それでも、コロはじつとしてゐました。わたしもじつとしてゐます。
しかし、わたしはかへらなければなりません。
そこへ、守衛がいきなりあらはれました。
わたしははつとしました。
なにをしてるんだ!
守衛が怒つてゐます。
わたしはあわてて逃げ出しました。
脱兎のごとく、走ります。門を抜けて走つて、走つて、どこまでも走りました。
とめどなく、なみだがこぼれ落ちました。それをふりきるかのやうに、わたしはせはしく息をはきながら、走りつづけたのです。