『人間の悲惨な境遇について』

kimikoishi2006-01-20

ロタリオ・デイ・セニの『人間の悲惨な境遇について』といふ本があります*1。のちの教皇インノケンティウス三世が、助祭枢機卿だつた若い頃に書いた本です。

どういふ本かといふと、暗いです。ひたすら暗い本です。滅入りがちな人はあまり読まないはうがよいのではないでせうか。わたしも昼間でよほど元気な時でなければ手にとる気はしません。

人間の卑俗さと傲慢さを徹底的にあばきます。でも、それは中世によく読まれたボエティウスの『哲学を讃へて』やトマス・ア・ケンピスの『キリストにならひて』と同じやうに、人間の放恣に流れやすさを戒めるために書かれたもので、絶望の宣言ではありません。ただし、希望はあの世にあるといふ救ひのなさはあるのですが*2

しかし、放恣な欲望ばかりが噴出する今日この頃*3、時には「人間の悲惨な境遇」を思ひ、人間の悪辣や頽廃を戒め、あの世を据ゑた生き方を考へてもよいのではないでせうか。

『人間の悲惨な境遇について』の章は
人間の悲惨さについて
物質の下劣さについて
懐妊の罪悪について
胎児はどんな食物で胎内で養われるのか
幼児の虚弱さについて
出産の苦痛と子供の泣き声について
裸身について
人間はいかなる果実を産み出すのか
老齢の不安について
人間の労苦について

と、以下続くのですが、「胎児はどんな食物で胎内で養われるのか」や「裸身について」のやうに、一見話がずれてゆくところがいかにも中世風で楽しいです。

やはり中世の『狐物語』も、どんどん話がずれていつて(そして、強引に本筋に戻るわけなのですが)。、近代の人間にはなんとも変な感じを覚える箇所が多々あります

ミシェル・フーコーの『言葉と物』の冒頭にある、ボルヘスの紹介による「シナの百科事典」の荒唐無稽な分類の記述*4を思ひ出してもよいかも知れません。あれもシナの事典といふ前置きではありますが、じつに中世的です*5

ロタリオ・デイ・セニは『人間の悲惨な境遇について』の続きとして、『人間の幸福な境遇について』を書く予定だつたらしいのですが、果たさずに終はつたさうです。

いや、じつは『人間の幸福な境遇について』は、本当はあつたのかもしれません。

ウンベルト・エーコは『薔薇の名前』で、アリストテレスが「悲劇」について論じた『詩学』の続編「喜劇」の章は、長らく書かれずに終はつたものとされてきたが、じつは中世のある時(オッカムのウィリアム(1285-1349)が活躍した、中世神学が終はりを告げつつあつた時代)に、厳格な修道僧によつて「喜劇」の章だけ葬られたのではないかといふ仮説を置きました(大真面目にではなく、物語の設定のためにですが)。

ロタリオ・デイ・セニ自身が書いた後葬った可能性もありますが。真相は神のみぞ知るです。それにしても、わざと書かない続編とは、味があるものです。

*1:http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4888962081/qid=1139405721/sr=8-4/ref=sr_8_xs_ap_i4_xgl15/249-0211859-6730717

*2:12日に取り上げました、田辺保『ボーヌで死ぬということ―「中世の秋」の一風景』にこれら3冊が挙げられてゐます。どのやうな環境下でかうした書物が読まれたかが触れられてゐます

*3:なかでも17日は関西の震災の日なのに、徹底した俗物と悪者が跋扈する日になつてしまひました。しかも三位一体トリオで。仏教では三毒(むさぼり、いかり、おろか)を説きますが、それにぴつたりのトリオでした。

*4:「動物は次のやうに分けられる。(a)皇帝に属するもの、(b)香の匂ひを放つもの、(c)飼ひならされたもの、(d)乳飲み豚、(e)人魚、(f)お話にでてくるもの、(g)放し飼ひの犬、(h)この分類自体に含まれるもの、(i)気違ひのやうに騒ぐもの、(j)数へきれぬもの、(k)駱駝の毛のやうに細い毛筆で描かれたもの、(l)その他、(m)いましがた壺をこはしたもの、(n)遠くから蝿のやうに見えるもの。」

*5:中国哲学碩学によると、ボルヘスが挙げた百科事典は存在しないさうです。