マルクス兄弟

kimikoishi2005-12-18

けふは、たまたまマルクスの「経済学・哲学草稿」を読みました。マルクスはあまり性格のよくないひとだつたやうで、友人のエンゲルスは大変だつたやうです。わたしもけふは感じ悪く、悪口ばかり書き連ねることにします。

マルクスはそこで、Hegelを批判してゐるのですが、その批判を一言にまとめると、

(一言にするな、と怒られさうですが、わたしはマルクス教徒ではないので、怒られやうと、てんで平気です。

さうです。とにかく、議論といふと、勝ち負けを決するものだと思つて、自分の論点が批判されると全人格を批判されたやうに怒る人が多いですが、そんなものか知らん。わたしはさういふのは厭です。

そして、議論を高めあふ、知識を交換し合ふのではなく、ひたすら大声を出して、光景として「勝つた」ことになればそれでよいのだと必死になる、おばかさんが一番嫌ひです。

また、わたしが思ふに、「敬語」は議論においてもつとも邪魔なものだと思ひます。上下関係を持ち込んでは、遠慮が入つてしまひます。
正しい日本語ブームがつづいて、正しい敬語なんてことがいつまでもいはれるやうでは、どうしやうもないです。形より中味の議論が必要ではないでせうか。

と、わたしは口角泡を飛ばして言ふわけですが、そんなの厭だ、やつぱり議論は勝つものだ、それだけだ、と言はれたら、どうしませうか。そんな方はてつとりばやく殴り合つて、ははは、と笑つて、握手しあへばいいとおもふのですが。ねちこくなつた今の日本では無理なんでせうか。

当節の論壇では、政治を論じるのが流行してゐるやうですが、わたしがそれについてゆけないのは、政治を論じながらも、どこか肝心なところを捉へてゐないやうに思へるからなのです。自分の立場を押し付け合ふ政治学ジェンダー論なんかが苦手だからでせう。アーレントはさういふ人ではありませんが。外国のもののはうが喧嘩はうまいやうです。

長い括弧終はり)

ヘーゲル君はなんでも自己意識にまとめてしまつて、労働も結局意識のなかのものにしてしまつて、具体的なものを見えなくしてしまつてゐるぢやないか、それではいかん。

といふものです。

世界を表現すること。哲学の一つの役割ですが、それは必然的に抽象的な自己完結的体系になりやすいです。哲学だけの「世界」ができて、そのなかで蠢いて、ああだかうだといつてゐるだけで、そのまんまのわたしたちが生きる世界からは、どんどん離れてゆきます。

カントやヘーゲルは、かうした哲学者の代表によく挙げられます。いや、じつはさうではないといふ研究もみかけますが。

この生き生きとした世界から離れてはいけない、と言つた哲学者の一人がベルクソンなのです。ええ、石原慎太郎清子内親王の婚姻のスピーチで引用したあのベルクソンです*1

それでも、この理論と生活がはなれてしまふといふ問題は、なかなか消えないだらうと思ひます。

実際、理論も本もなくても生活はできます。そもそも、生活せずに*2理論を立てている一部の大学生や一部の大学の先生の理論は*3、どうもへんてこで、生活にはチツトモ役に立たないばかりか、害になるはうのことが多いです。

わたしは生活とは、たとへばおなかのでつぱりとの戦ひではないかと思ひます。衣食住すべてがそこに集約します。快楽と仕事と健康の三つ巴の均衡にあるもののやうにも思ひます*4

「この頃新聞でみる南京のことなども聯想されてわが国民性といふものについて考へさせられざるをえない。これまで私は日本民族を他の如何なる民族よりも思ひやりのあるおだやかな民族だとばかり信じて来た。これは私たちのうぬぼれに過ぎないのだらうか。

現に見る狂暴*5や南京で実証された暴虐は群集心理と言つて弁明しえられるだらうか。社会的訓練が足りないのだと言つて弁明しえられるだらうか。

如何なる場合にも本来無いものが出てくるはずはない。酒を飲まうとどうしようと本人に無いものの出てくるわけはない。実証されたものは自分に内在すると考へるよりほかはない。

残忍性! これはわが民族の血液の中に在るものだらうか。

残忍性と共にわが国民性について考へさせられることは一般にウソが多いことである。なぜ私たちの社会には偽善的なことが多いのだらうか。なんとかいふと道義とか道徳とかいふことが言はれる。いはゆる説教が実に多い。

しかも道徳が言はれれば言はれるほど其処には道徳がなく、耐乏が説かれれば説かれるほど其処には耐乏がないといふことは無いだらうか」(天野貞祐『生きゆく道』1948)

ネットには、とくに狂暴と偽善が渦巻いてゐると思ひます。日本人の偽善性は*6全体主義的な管理体制によくあらはれてゐます。変はり者が許されない社会です。差別をなくさうと主張しながら、違ふところで強烈な差別をしてゐる人をよく見かけないでせうか。小さな共同体でちまちまと差別をしあつて、地位や金銭などで優越感を誇ったりするのも、もう止めようではないかと言ひたいのです。

*1:石原慎太郎の引用はどうも適切であつたとは言へないのですが、ベルクソンという名が世間の耳目をひいただけで、わたしは満足です

*2:この「生活」とは稼ぐ稼がないの話ではありません。ベルクソンの「生活」が金銭とは関係のないところにあるやうに

*3:それは、なんの苦労もせずにベンベンと生きてこられたくせに、無理に苦労人だと思ひたがるやうな方です

*4:わたしは「痩せ気味」から「痩せ気味」に限りなく近い「標準」に移行したのであり、肥満体になつたわけではありません。なんだ古だぬきのやうな百貫デブがなにいつてんだ、と思はれるのは心外なので注をつけておきます。この場合は議論も何もありません。わたしは百貫だぬきではなく、いたちかてんのやうなのだと断固抵抗します。抵抗するほどのことではないですが

*5:天野は電車などでの日本人の公共性の低さを挙げてゐる

*6:もちろん、日本だけではなく、よその国でもさうですが、他を批判するよりまづ自らをといふことで