マリヤによる福音書

kimikoishi2005-04-14

「マリヤによる福音書」(小林稔訳「ナグ・ハマディ文書Ⅱ」岩波書店、1998)といふのを読みました。マリヤはマグダラのマリヤです。


新約聖書は、現在四つの福音書が収められてゐますが、じつは福音書は他にももつとあつたのです。四つしかなかつたわけではありません。
新約聖書が編纂された時に、当時の教会の意図に沿わない、除外された福音書があるわけです。それが、グノーシス主義の影響の強いトマス福音書、フィリポ福音書、マリヤ福音書などでした。
その特徴は、女性の存在を現行の聖書の四つの福音書より、表に出してゐることが知られてゐます。


マリヤ福音書は、霊、心魂、叡智の三区分を示し、心魂の旅によつて、心魂の生長を描く物語を展開してゐます。わたしにはたいへん興味深い内容ですが、惜しいことには欠落部分が多すぎて、全体が良く分かりません。ひそかに伝へられた文書だけに、完全完璧な形で残つてゐるわけではないからです。


マリヤは幻のなかで「救ひ主」の言葉をききます。まるで「薔薇物語」のやうに「心魂」を語り手として、マリヤは救ひ主が伝へた言葉を語ります。しかし、マリヤの物語を聞き終へたアンドレアスやペトロはそれを信じないといふのです。神があなたなぞを選んで語るわけがない、と。


マリヤはそこで泣くのです。嘘をついてゐるといふのですかと。


最後に、レビがペトロたちを諌めます。「ペトロよ、いつもあなたは怒る人だ」と。マリヤはわれわれよりも救ひ主に愛されてゐると。完全なる人をめざしてわれわれは進んでゆかなければならない。いがみ合ひをしてゐるときではないのだよ、と。


このやうな福音書は当然、ペテロを初代法王とする教会に受け入れられるわけはなく、新約聖書の編纂過程において削られることになりました。しかし、もし入つてゐたら、大変美しい物語であると同時に、男性原理を貫かうとしてはゐるが、かならずしもさうなつてゐない現行の新約聖書を、より自然な形のものにしたのではないでせうか。


もちろん、女性の称揚が良いと云ひたいのではありません。わたしが注目したいのは、男女の力の区別と、その自然な組み合はせ方なのです。


「いつも怒る人」があつたからこそ、キリスト教の組織は強固になつていつた過程があります。これをただ男性原理で愚かなものと峻拒するのは愚かなことでせう。怒ることと組織をつくるエネルギーはかなり似たものなのかもしれません。ただし、それだけでは物事はうまく行かないし、組織も破綻してしまひます。


問題は、そこで「怒る」ことに向かはない、マリヤの声を聞くことができるかどうかなのでせう。イエスを守つたのは、男達であり、女達でもあつたのですから。


エスの復活を頭から疑はなかつたのは、使徒ではなく、マグダラのマリヤでした。使徒は復活の証拠を示されなければ信じることはできなかつたのですが、マリヤは証拠も何もなしに、信じるがゆゑに信じたのです。それはマリヤの弱さでもあり強さでもあると申せませう。


女性原理を称揚する人はこの頃多いですが、肝心なところは結局取り上げられてゐないやうに思ひます。それは女性原理を頭から否定するより、かへつて重大な誤謬を犯すことになるだらうと思ひます。