モナ・リザ la Joconde

kimikoishi2005-03-26

けふ、またダヴィンチのモナ・リザの特輯をテレビで放映してゐました。面白かつたのですが、此前の荒俣宏氏が出てゐるはうが、よかつたやうに思ひます。
今度のは、わーすごい、モナ・リザはもう一つあつた! わたしらの番組が見つけたんですよ!よ世界ではじめてのテレビ放映! モナ・リザが二つあるなんて、世界の歴史が変はつてしまふ! 実際、モナ・リザが来ると、世界の歴史は変はつたんですよ!
何と大統領まで失脚しました。日本の首相だつて、ほれほれ。と、大騒ぎで、わたしはあまり大騒ぎは好きではないので、すこし引きました。


最初から、引き気味だつたので、今回は荒俣氏の番組のやうに楽しめず、後味の悪さが残りました(でも、面白かつたのですが)。


それにしても、気になる点が幾つかありました。


① イエスマグダラのマリアは結婚してゐたといふ件。


この証拠として、「ナグ・ハマディ文書」に、マグダラのマリアはイエスの伴侶であつたといふ記載があることが挙げられてゐます(これは荒俣氏の番組の方で紹介されたことで、今回のは触れてゐません)。しかし、この「伴侶」は精神面でも肉体面でもいゝのですが、文字通りの結婚関係なのでせうか。


古代文学は、たとへば『黙示録』がさうであるやうに、言葉を象徴的なものとして解釈する必要があり、文字通りに現在の意味で考へてしまふのは、何うかと思ひます。だから、結婚してゐたかどうかの証拠にはかならずしもならないやうに思ひます。


② シオン修道会はイエスの結婚の秘密を、秘密結社の形で密かに守つて現在に伝へたといふ件。


このシオン修道会は何者か全然はつきりしません。シオンといふ名からは、シオニズム系の団体かと思つてしまひます。それについては触れませんでした(ユダヤ問題に抵触するからでせうか)。


それはともかく、結婚なぞ余りにもたいした秘密ではないので、そんなことをわざわざ伝へるといふ修道会の詰まらない役割は、じつは、この修道会が本当に果たさうとしてゐることのごく一部でしかないのではないでせうか。


③ 結婚の秘密の件


ソニエール神父(1852-1917)はイエスマグダラのマリアとの結婚の秘密を知つて、ヴァチカンをゆすり大金を獲たといふ話ですが、十九世紀末から二十世紀初頭のヴァチカンが、その程度の話で震へあがるでせうか。


二十世紀初頭の南仏で、異端が擡頭したなんて話は聞きません。あるのでせうか? 異端カタリ派の時代ではないですし、そんな話が煽動に役立つとは思へません。


ヴァチカンが恐れたのなら、もつと裏に重要な要因があるのでせう。


十九世紀末二十世紀初頭の此頃、修道女が神と出会つたといふ話を認め、其の修道女を列聖したりしてゐます。修道会の女性が個人で神と直接交歓するなどといふ、このやうな異端的事実(何しろ病人やくらゐの低い修道女が神と直接交霊?したといふのですから、プロテスタントでもない限り、異端的な事柄であつたわけです)をヴァチカンは認めてゐるのです。


十四世紀や十六世紀ではないのですから、イエスの結婚云々の話くらゐで、ヴァチカンがひつくりかへつたりはしないはずです(結婚の話などはヴァチカンは認めないでせうが。認めないことが打撃的事実にすべて結びつくといふことにはならないでせう)。また、反論がいくらでも可能な文書がヴァチカンの痛手になるとは思へません。


また、ソニエールがこしらへたマグダラのマリアを祀る聖堂は、悪魔の像などがあり、こんなものは他にはないものだと、けふのテレビ番組では云つてゐましたが、それは噴飯物の話で、どこでもは語弊がありますがいつぱいあります。


目立つか目立たないかは兎も角、悪魔の像は古い教会にはよくあるものでせう。意地悪を云へば、巴里のノートル・ダムのガルグイユだつて悪魔です。


けふの番組は、前の番組ほど資料を見せず、それどころか悪魔の像は普通はない云々のやうな結構いゝ加減な断定も多いものですから、とても胡散臭くなつてゐたのが残念です。


どうも、番組をつくつてゐる人の中には、キリスト教と言ふと徹底的に一元化した宗教で、異端と聞くと黙つてゐない恐ろしい宗教で、それがルネサンスの人間の時代になつて、ことごとく滅ぼされて、暗黒の中世は終はつた、といふじつに単純な宗教史観をもつてゐる人が多いやうです(学校で習つたとほりのことしか、放映しにくいといふこともないでせう。だつて、エロチツクな番組は毎日うんざりするほど放映してゐますが、それは学校では教へないことですから)。


近代の先取り、ダヴィンチの勝利、暗愚の中世教会、してやられたといふ構図は、正直言ひまして、気に入りませんでした。異端といつても、そんなに支配は簡単ぢやないのですよ。異端の国日本に対してだつて、イエズス会のめざしたキリスト教化は失敗したではないですか。
悪魔的なもの、古代的なものを、教会はたしかに駆逐しようとしましたが、中世千年を通して結局共存せざるを得なかったと見るのが正しいのではないでせうか(だいたい近代ほど、世界は一元化してゐないことも忘れてしまつては不可ないと思ひます)。

さういふ意味では、中世もさまざまな姿を呈してゐたのでせう。ダヴィンチはそのさまざまな面が気に入つてゐたといふだけのこと。むしろ、近代のはうが、世界を一元化し、何でもかんでも一つにまとめあげてしまつた暗黒の時代です。近代が中世を駆逐した輝かしい時代だなんてとんでもない。近代の諸悪の元凶がダヴィンチといふことになつてはかはいさうです。


ミシェル・フーコーの『言葉と物』の有名な指摘を改めて持ち出すこともないですが、古典主義時代に監禁されてゐた狂人でさへ、近代では解放されて産業に利用されるやうになります。功利的でないものは一切許されない時代。それを改めて賛美する番組こそ、「中世の暗黒」と云はれるものそのものゝではないかと、慄然としました。勿論、之はわたしの勝手な深読みなのですが、ルネサンスを人間の解放と素直に受け止めるのは、昔はいざ知らず、今はをかしいでせう。


だいたい、番組の「モナ・リザ」の貨幣価値ばかりを強調する姿勢にも、すでに近代万歳の姿勢は伺へたのですが(高いからいゝものといふのはある意味事実ですが、美術をすべて貨幣価値で換算しきれるものではないと思ひます。貨幣価値は一つの観方による尺度に過ぎないのですが、番組の姿勢ではイコールになつてゐるやうに見えました)。


でも、それも仕方ないのかもしれません。建築と絵画が切り離されて、絵画が独立して鑑賞されるやうになつたのは近代なのですから。近代万歳がなければ、モナ・リザ万歳もないのかもしれません。


もつとも、わたしは番組のもとになつた『ダヴィンチ・コード』を読んでゐないので、そちらはもつと、含蓄に富んだことを解説してゐる本なのかもしれません。わたしの疑問点にも答へてくれてゐることでせう。
したがつて、上に書いたのは番組だけを見たわたしの感想(といつても悪口)です。


(附記)さうはいつても、テレビ局の方の御苦労も伺へる番組でしたので、悪口ばかり申上げて済まないとは思つてをります。でも、いまさらながらの暗黒の中世、光の近代はやめて欲しいと思ふのです。近代だつて戦争ばかりで充分暗黒の時代だつたのですから。