新宿驛停留所の怪談

kimikoishi2006-01-09

なんだね。けふは妙に空いてゐるぢやあないか。誰も乗つてないぜ。きつと前の電車が出たばかりなんだらうな。さういへば、君は何処までだつけね。

新宿?
さうか、僕もだよ。・・・けふはまた月がいゝね。冴え返つてゐるよ。

時に、君は鏡花が好きだつたね。僕は西洋趣味だから、さういふのは読まないけどね。若しかして幽霊譚や怪談のたぐひが好きなのかい?

へえ、さうかい。それで鏡花を読むんだね。ポーなんかはどうだい? さうか、読まないか。是非読んでみたまへ。

さうさう、幽霊で思ひだした。さういへば、僕は幽霊を見たことがあるんだよ。何、ほんたうさ。君はさういふ話好きなんだらう。ぢやあ、笑はずに聞いて呉れるかね。いやさ、たいした話ぢやないんだ。

その日も矢張り、けふみたいに月のきれいな日だつたね。そして、寒い日だつた。さうだな。ちやうど一年前ぢやないかな。さうだ。あれからもう一年だな・・・

僕はその夜、新宿で省線を降りて、市電の停留所へ向かつたんだ。停留所には、ちやうど水天宮行きの電車がはひつてくるのがみえてね。やれやれ、寒い中、電車を待たなくて済んだと、さつそく乗り込んだんだよ。

電車の中はあまり暖かではなかつたけれど、まあ外で待つよりいいわけで、やつこらせと腰をかけたんだ。

さうさう。けふみたいに、僕の他は誰もゐなかつた。新宿駅は始発だからね。運転手が折り返しの作業をするんだらう。がらがらと戸を開けて、外に出ていつたよ。

戸を開けたら、寒い風が吹いてくるもんだから、首をすくめたよ。まあ、すぐ閉めてくれたがね。後ろを見たら、車掌の奴、立つたまま、大あくびをしてゐやがつた。

さうさ。僕も眠くてね。時間も遅かつたからね。赤電車にはだいぶん間があつたけれどね。さて、少し眠るかな。と背を丸めかけたんだが、その時ぱつと車内の電気が消えたんだよ。電車の中は真つ暗さ。

電車が折り返しの時は電気を消すだらう。まあ、たいていすぐにつくんだがね。ポールか何かをまはすんだつけ。とにかく、しばらくは真つ暗さ*1

いくら月明かりがあるといつても、夜も遅かつたからね。唄の文句ぢやないが、「月もデパートの屋根に出る」*2の新宿の駅前とは云へ、暗いものだよ。まあ、でもビルヂングの窓の明かりはちらちらあるんだ。

真つ暗な闇から見る街つていふのは、なかなか乙なものでね。君は見たことないかい。・・・ないのか。まあ、いいさ。僕は眠るのをやめて、ぼんやりと、
向かひ側のガラス窓から街を見てゐたのさ。シャンでも通らないかつてね。
・・・いや、これは戯談だよ。

しかし、何しろ遅かつたから、街もあまり人もゐなくてね。すぐに飽きて、ふつと電車のうしろのはうを見たんだよ。さうしたら、暗い中で、車掌が此方を凝つと見てゐるんだよ。

何んだ?

と思つて見かへしたんだが、車掌の奴、何うやら僕ぢやなく、その向かうを見てゐるやうなんだ。

何せ、僕が見つめてゐるのに、全然気付く風でもなかつたからね。その車掌の顔が何んだかあんまりいぶかしげなもんだから、僕も気になつてきてね。

其処で、首をひねつて、僕も前のはうを見たんだが、一寸ギョッとしたね。うん。いつの間にか客が一人ゐたんだよ。僕の向かひ側にね。

其奴は古ぼけた時代遅れのぼろぼろの外套を著て、これまたぼろぼろのはやらない帽子をぐつと目深にかぶつた、至つて陰気な感じの若い男でね。襟巻きに顔を深くうづめてゐたから、顔ははつきりしないが、まあ、若い男だつた。

此奴、何時の間に来たんだらう。

と驚いたが、其の時は、何、電気が消えてゐたから気づかなかつたんだらう、くらゐにしか思はなかつたよ。

さうして、僕は車掌の奴のはうを、また見たのさ。すると、奴はまだ変な顔をして此方を見てゐる。やがて、僕が凝つと見てゐるのに気づいて、視線を外らしはしたがね。

なかなか、明るくならないものだから、まだ電気がつかないのか。運転手は何をやつてゐるんだと、視線を移したら、先刻の男が目に這入つてね。

車掌の奴、何だつて、此奴を気にするんだらうと、また見てみたのさ。さうしたら、此奴も僕の視線に気がついたやうで、ふつと顔を上げたんだ。

君。いやね。ほんたうにあの時はビックリしたよ。

アッと声を上げかけたね。

まるで骸骨のやうにやせこけた顔で、ギョロギョロした目で、此方をグッと見かへしてきたんだが、とつても恐ろしい形相でね。何だか顔にも傷があつたやうだつた。ちらつとしか見なかつたがね。其の傷が妙に生々しい感じで、たつた今怪我をしたばかりだといふ感じだつた。血まみれのやうにも見えたよ。

いやね。たとへやうがないんだが、生々しい、そんな感じなのさ。大怪我して平然と電車に乗つてゐるなんて法はないだらう? 実際、をかしいわけだが、まあそんなことより、何しろ気味が悪かつたのさ。

そこで、思はず目を反らしたのさ。奴はまだ此方を見てゐるやうだつた。視線を痛いほど感じたよ。

気味の悪い奴だ。席を移さうか知らと思つたよ。何だか落ち着かない心持ちになつてね。

すると、パッと電気がついた。オレンヂ色のやはらかな光がまはりに満ちて、何んだかほつとしたよ。

しかし、ほつとしたのも束の間だつたね。いきなり、キャッと車掌が素頓狂な声を上げるぢやないか。

驚いて、車掌を見たら、目を丸くして、やつぱり此方を見てゐるぢやないか。思はず、僕もふりかへつて見たら、何んと、先刻の男がゐないぢやないか。

そんなわづかの間に、外に出られるはずはないんだ。戸を開ける音くらゐするものだからね。

あわてゝ、僕は立ち上がつて、車掌に「君、あの男は?」と尋ねたよ。車掌は蒼白の面上で、僕の顔を見るだけで何んにも言はないぢやないか。

車掌がいたく動揺した様子で、いきなりがたがたと戸を開けて外に出るから、僕も彼に続いて外に出たよ。さうしたら、運転手がちやうど電車に乗りこまうとしてゐたところで、何うしたんだと驚いた顔をしたよ。

さうしたら、車掌が「例の奴」が出たんだと運転手に云ふんだよ。

例の奴? 
車掌の奴、彼奴を知つてゐるのか? と驚いたが、運転手もまた得心したやうな顔で、また出たか。なんて抜かしてゐるぢやあないか。

さうなんだよ。良く出る幽霊らしいんだ。市電の職員の間では、当たり前の話になつてゐるんだつて云ふのさ。其の曰はれかい? 詳しくは分からないつてさ。兎に角、月の皓々たる晩なんかに良くあらはれるさうだよ。さう、ちやうど此様な晩だね。

あゝ、もうぢき、其の停留所に着くよ。

君も気をつけたまへ。ハハハハ・・・*3

*1:当時の市電は折り返しの際に、いつたん電気が切れて車内が真つ暗になるのです。

*2:佐藤千夜子が昭和4年に歌つた流行歌「東京行進曲」4番の歌詞の一節。

*3:これは昭和10年くらゐの話で、或る老先生から伺ひました。一応は実話といふことになつてゐますが、ほんたうのところは分かりません。