新刊本

kimikoishi2005-08-02

わたしはこの頃新刊本が買へない身分で(お金がない)、Amazonなどで古本ばかり熱心に探してゐます。現実の古本屋にもたまにゆきますが、探すのが面倒なので、昔のやうに神田や早稲田や梅田の河童横丁に出かけることはなくなりました。

Amazon.jpの和書売上げ第1位が「マンガ嫌韓流」なのださうです。あまりお金を出して読まうと思ひませんが、ブックオフで百円なら読みたいです。新刊書店にゆけば、ただで読めるかな。


左翼の方々は、嫌韓流などといつた本がはやつてしまふことを大いに嘆いてをられるやうですが、さういふ人はだいたい「良識派」を気取つてゐて、あたまのいい、正義と愛に満ちた「自分」、愚人どもを率ゐる前衛の「自分」としては嫌韓流を嫌は「なければならない」といふポーズを見せつけたがるものです。


さうして、今の多くの馬鹿な大衆がファシズムをひきおこして、また昔の日本みたいになつてしまふ、と大いに慌てるのです(慌てるけど、慌てるポーズだけで、あとは相変はらず「馬鹿な大衆」にはまつたく受けない行動をせいぜいするだけです)。


左翼の方々はもちろん「馬鹿な大衆」とおおつぴらには言ひません。でも、さう思つてゐるんだらうなあといふのは、言葉の端々から感じます。こゝには挙げませんが。少なくとも、嫌韓流を喜んで読む人は全員馬鹿だと思つてゐるのは間違ひないでせう。しかし、さう単純な問題でせうか?


大衆が馬鹿で困るのなら、その馬鹿な大衆の心に訴へる方策を少しでも考へたはうがよいでせう。左翼の人はとりわけユーモアにかけると思ひます。そして鼻持ちならないエリート主義も捨ててみるべきです。


わたしは「嫌韓流」があつてもよいと思ひます。しかし、「韓国」という国が嫌ひなことと、現実の韓国人が嫌ひなことは別だと思ひます。「日本」の国が愚かでどうしやうもない国だとしても、そこにゐる日本人みなが同じやうに愚かといふことはないでせう。わたしの韓国の友人はとてもよい人でした。「嫌韓流」で定義してゐる韓国人と同じではないと思ひます。


左翼の方々もみながみなエリート主義を振りかざし、十年一日のごとく「過去の贖罪」をくりかへしてさへゐれば、それ以上のことはしないといふ愚かな人ばかりではない、とわたしは思つてゐますが。