電車

kimikoishi2005-07-07

それは、忘れもしない、うだるやうな暑い夏の夕方であつた。


僕は何時ものやうに、何時もと同じ時間の省線電車に乗つてゐた。
些とも読めぬ横文字の本を、同じ頁の同じ辺りを何時迄もしふねく見つめては、
時折さつと顔を上げては、電車の隅に目を走らせて、また横文字の本に目を落とすといふ、
きはめて莫迦莫迦しい規則運動を繰り返してゐた。


うだるやうな夏の倦怠に包まれて、電車はごとごとと重苦しい音を立てながら、
ゆつくりゆつくり新宿駅を目指して進んでゐた。


暑苦しい車内は、昼間のきつい光を避けるためか、
ところどころブラインドが上げてあり、そのために夕暮れの鈍い光が
すつかり遮られてしまひ、薄暗く淀んでしまつてゐた。


さうして、ブラインドは、窓から這入りこむ風にがたがたと不快な音を立ててゐた。


乗客は夏の暑さにすつかり疲れきつたのか、電車の鈍く規則正しい振動と、
開け放つた窓から吹き込む、生ぬるい風に誘はれてしまつたのか、
ぐつたりと居ぎたなく眠りこんでゐた。


くたくたの白羅紗の背広を着た腰弁、ロイド眼鏡をかけた丁稚風の男、
がくりと首を傾けてゐる赤ん坊を背負ひ、浅く腰掛けてゐる女中、
どれもこれも、みな居ぎたなく眠り込んでゐた。


だが、僕は全然眠くなかつたのだ。


それも其の筈、僕が何時もと同じ電車に乗つてゐるのは、たまたまのことではないのだ。
実際、明快な目的があつて乗つてゐたのだ。それは、思へば実に無意義な目的ではあつたが、
しかし、僕の其の時の唯一の楽しみであつたのだ。


さうして、其の楽しみは、見せびらかすためだけの横文字の本からは、
決して得られぬ躰のものであつたのだ。