おぎやうぎ

このところ、てれびじよんをみてゐて、ずゐぶん変なことだと思ふのは、無作法な人がちよろちよろ出てくる宣伝が多いことです。


言葉づかひが大変汚い宣伝がままあるのは、まあ世間全体がさうなつてゐるから諦めるとして、父親を手でしつしつとけもののやうに追い払ふ娘が出てくる宣伝や、食事をしながら足をばたばたさせてゐる若い女が出てくる宣伝、ストローをいつまでもずるずるとすする、未練がましい音を携帯電話の着信音にせよと勧める宣伝、がつがつと大口を開けたまま一心不乱に餌を食らふ男を大写しにする宣伝なぞ、見てゐるこちらが眉をひそめるやうなものがいくつかあります。


わたしはかつて、テレビコマーシャルがすきで、番組の方はまるで見ずに、面白がつて宣伝だけ見てゐることもありましたが、最近のていたらくを見て、これでは、もう見たい番組はビデオテエプに収めることにして、宣伝はぴうーつと飛ばすほうがいいのかなと思ひました。


雨がそぼ降る町を、子犬がすたすた歩いてゐるなんていふ渋い宣伝は少なくなりました。はるか昔の商品名を連呼するだけの宣伝のほうが、未だましだつたでせうか。


てれびじよんだけ見てゐると、日本人が礼儀正しい国民だといふのは、もう神話ではないかと思つてしまひます。しかし、てれびじよんのなかの世界の人間に比べると、現実の人間はそれほど無作法でないやうに見えます。それはきつと目撃する率によるのでせう。テレビの世界は人口が少なく、かつ無作法な人が多く、それでテレビの世界の人間がみな悪いやうに見えて、この世界を現実の世界と錯覚することから、変な人が増えてゐるやうに見えるだけなのかもしれません。


とりわけ無作法な人をたまたまみると、日本人全部が駄目になり無作法になつたやうに見えるものです。じつはこれはそれほど変化してゐるわけでなく、無作法な人間はいつでも何割かは存在すると見るのが正しいのかもしれません。(これは犯罪に関してもある程度は言へるでせう。兇悪犯罪は増えてゐるやうですが、昔もそれなりにひどいものです)


明治時代にも、汽車の乗客が余りにも下品で困ると言はれたりしたものでした。ぎやあぎやあ騒ぐし、弁当のごみを散らかして、下駄や靴をすぐに脱いだりするといふものです。


面倒くさくなつたり、疲れたりすると、人間は無作法になりがちです。さういふ時はやむをえないとしても、満ち足りてゐて元気溌剌の時でも無作法、といふのだけは避けるやうにしたいものです。


さういへば、占領時代の朝鮮の話なのですが、こんな話があります。
当時は、やたらに朝鮮の人に対して無作法な振る舞いをする日本人がゐたやうですが、やはりそれはよくないと眉をひそめる日本人もゐたわけです。そこで、さういふ人はかう言ひました。あれは、きつと日本で食ひ詰めた程度の低い人間のやることなのだ。困つたものだ。


ところが、かういふ一般論に対して、三木清は鋭いことを言つてゐます。


さうではなくて、日本では紳士的な人間であつても、朝鮮に渡つた途端に、ああいふ態度に出るやつがゐるのだ。もともと低劣な人間ばかりではない。と三木はいふのです。わたしはこの方がほんたうなのだと思ひます。三木は「普通」の人が差別的な無作法に走る恐ろしさを述べてゐます。


作法の下劣さは、その人間の精神の奥底から生まれ出るものだといふことであれば、人を差別する態度をとることや、それを薄めた態度ですが、無作法な振る舞ひをすることはならない・・・少なくとも戒めるべきだと思ひます。無作法を繰り返すうちに、人間は次第に腐つてゆくのでせう。難しいのは、先の悪いことをする日本人はほとんどそれを考へずにやつてゐるといふこと、さらにそれを批判する人も、別の形で無作法を行つてゐることです。
つまり、無作法でないことは、じつにむつかしいのです。


わたしの無作法はどこにあるのか? 自分の評価は当てにならないし、さりとて指摘してくれる人がつねに正しいとは限りません。さあ、困つたことになりました・・・