美学と政治

kimikoishi2006-12-05

カントの『判断力批判』は理論理性と実践理性を結ぶ判断力について書かれた本ですが、その主題は美学なのです。

ごく粗雑に言うと、カントは『純粋理性批判』で真の問題を、『実践理性批判』で善の問題を扱ったわけです。『判断力批判』はそこで、美の問題を扱います。

判断力批判』は美学ですが、実は政治学を説いた本として読めるのではないか、と言ったのはハンナ・アーレントです。

規定的判断力と反省的判断力がどうとか緻密な難しい議論がありますが、それはアーレントの本(『カント政治哲学講義』)を読んでいただくこととして、わたしが注目したのは、カントが『判断力批判』で趣味判断を伝えること、について語っているという点です。

とてもとても俗に解釈すると、趣味判断を共有することはとても大事だとカント先生は言うのです。

真は誰もが納得します。まあ、真も、つねにひっくりかえされては、新しい真が出てくるので、絶対的な真理は、結局人間には見つけられないものなのですが、近似値としての真理はあるでしょう(そもそも、科学はカール・ポパーの言うように反証可能なものでない限り、真理ではないわけです。反証不可能な真理は、真理といっても信仰に属する「真理」でしかないので、真理とは言えません。真理は近似値であってよいのです。ただ、その状態に安住すると真理ではなくなります)。

真に対して、善はかならずしも誰もが納得するわけではありません。孟子の惻隠の情という話(水に落っこちた子供を見ると、誰でも無我夢中に救いたくなってしまう)がありますが、自分にはそんなものはないという人もいるでしょう(そのあたりの議論で面白い本があります。フランソワ・ジュリアン『道徳を基礎づける』講談社現代新書)。

しかし、共同体を構成するのに、善はかならず必要なものです。人間は真理で助けられはしますが、真なしに生きることは可能です。しかし、善なしには生きられないのです(善が完全になくなっているように見受けられる大人や子供が、このごろはたくさんいますが)。

とは言え、善は人によって一様ではありません。善は、真以上に共有は難しいことかもしれません。「資本」や「科学」のように単純一様なものではないからです。

それならば、どうすればいいか? それが、『判断力批判』の問いではないでしょうか。

趣味を共有する者の間であれば、真も善も同じものを共有しやすいのではないでしょうか(もちろん、ここで言う善や真は近似値としてのそれです)。

同じものを美しいという人々の共同体は、なんと麗しいことでしょう。昔、あの時同じ花を見て〜というグループサウンズの歌がありました。それはそうと、美は共同体を形成するのです。すなわち、美は政治の根源になりうるのです。

美学なのだけれども、それは政治に通じているのではないかというアーレントの解釈は、カントの『判断力批判』の讀解としては決して奇妙なものではないのです。カントは美学によって共同体の問いを立てていたのです。

美学で政治を問題にした人に、イタリアのクローチェがいます。そのクローチェの美学は戦時中にはファシズムに利用されてしまいます。クローチェはあくまで抵抗したのですが。

クローチェの美学には「天才」という言葉が出てきます。実は、美学の本には、決まってこの「天才」というのが出てきます。美学とはいえないかもしれませんが、ニーチェもそうですし、カントの『判断力批判』にも「天才」が出てきます。

美は何でも美と決めてよいわけではなく、やはりそこには規範となる美があります。したがって、美の共同体も何でもいいわけではありません。何でもよければ、それは善や真には至らないものとなってしまいます。

そこで、規範の判断者となる「天才」が出てくるわけですが、これが政治的に利用されると、当然ろくでもないものになってしまいます。

天才という言葉は、明治時代にもはやっておりまして、高山樗牛という人が有名です。ニーチェの受け売りなのですが、天才について熱く語ります。それを読んだ青年たちが、陶然として、自分は世界の真善美の判断者の資格を備えた天才だと大喜びするわけです。

美学はとても危ないものなのです。

しかし、カントの意図は決して誤ってはいないでしょう。そして、カントは最終的に天才に依拠することはありません。クローチェも天才という言葉をのちに放棄します。さて、それでは『判断力批判』の問いを、危険に陥ることなく問い返すには、どのようにすればよいのか。

という問いは後回しにして、とりあえずわたしはおやつの時間にいたします。